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6.延 暦 寺
 どこからか線香の香いが漂ってくる。若い僧はハッ! と我に返った。
「お、俺は一体、どうしたんだ?」
 回りを見渡すと大勢の仲間の僧が倒れていた。全員、血だらけで苦しみ抜いた揚げ句、死を迎えたようだ。僧は頭を抱えてその場に座り込んだ。一体、どうしたというのか? さっきまで自分は仲間の修業僧達と一緒に座禅をくんでいた筈だ、なのにこの有様は。僧は震えながらもう一度、辺りを見渡した。誰か生きていないかと思ったのだ。
 だが、仲間の修業僧で生きている者は一人もいなかった。皆な苦悶の表情のまま息絶えている。どうしてこんな事になったのか? 誰かがやってきて、彼らを殺していったのだろうか? いや、鍛え抜かれた修業僧達が簡単に殺られる訳もない。もしや自分の気が狂って、彼らを殺したのだろうか?
若い僧は頭の中で同じ問答を何度も何度も繰り返していた。
 やがて若い僧は考えた。
「ここを早く逃げ出さないと」
 気がつくと僧は走り出していた。だが、僧の心の中にはまた新たな疑問が沸いてくる。
 なぜ、俺は逃げるんだ? このままあの寺にいたら、警察に捕まってしまうからだろうか? それとも、最後に自分も殺されるかも知れないからだろうか? なぜ俺は走っているんだ?
 なぜか体が勝手に動いている。まるで自分の体じゃないみたいだ。足が勝手に『向こうにいけ!』といっているようだ。若い僧は朝焼けの比叡山をただひたすら走っていた。しかし次の瞬間、若い僧の顔には、ある決意がみなぎっていた。
『決まってるさ。ワシの左腕を吹き飛ばした佐伯光司を殺すのだ!』

 プルルルルルル! と目覚まし時計の音が鳴り響く。僕は「う〜ん」と唸りながら起き上がると、枕元の目覚ましのスイッチを切った。ボリボリ体を掻きながら洗面所へと向う。そして鏡に映っている自分の顔をじっと見た。
 もう、京都に来て一週間以上経つな。
 始めは三、四日くらいのつもりだったのだが、とうとうこんなに長くなってしまった。自分はあとどれくらいここにいるのだろう? 鬼芭王を倒したらどこかに行くのだろうか?
 それとも鬼芭王に殺されて死ぬのか?
「まあ、どうにかなるさ!」
 そう考えると、顔を洗って服を着替えた。ここは後藤氏紹介の民宿だ。いつまでもホテル住いと言う訳にも行かない。朝飯はとらずに外に出た。哲学の道をふらふらと歩きながら後藤屋へと向う。僕はボンヤリ考え事をしながら、この道を歩くのが好きだ。四月になればこの辺りにも見事な桜が咲くだろう。その頃までここにいるのもいいな。
 やがて白川通りに出ると、後藤屋を目指して進んだ。お店には何人か店員さんがいて、僕を迎えてくれる。
「おはようさんですぅ」
「あっ、どうも」
 そのまま店の奥へと入っていく。ここでずっと働くのも悪くはない、そうも思ったりもした。店の奥では後藤氏が電話の真っ最中だった。僕の姿を認めると後藤氏は、奥へ行け。と手で合図した。スタスタ歩いていく。座敷に上がると胡蝶とまりちゃんが並んで座っていた。
『おはよう・今日は・早いね』
「おはよう。胡蝶」
『おはよう、光司。まりちゃんもう、お腹ペコペコ!』
「今日の食事係は?」
「私ですよん」
 台所を見ると寺戸が立っていた。懸命に朝食を作っているようだ。
「今日のメニューは?」
「千枚漬けに、お味噌汁、貝のバター焼きに卵焼きです」
「おお! 家庭の味だ。嬉しいねえ」
 ちゃぶ台の上で新聞を広げる。もうすぐ他のメンバーも出勤してくる事だろう。
 この団欒、サザエさんでも出てきそうだな…。一人で考えていると、やがて他のメンバーもガヤガヤ言いながらやってきた。やがて食事が始ると一段と連中はうるさくなる。皆な互いのオカズを狙っているためだ。少しでも油断をすると、大好きな卵焼きも一瞬にして消えてしまう。
「誰だ! 僕の卵焼き! 誰が取った?!」
 そう叫んでも皆な首を横に振るような連中である。
「そういえば昨日の疾鬼、どこに逃げたんだろう?」
「いずれまたセンサーに引っかかると思いますがね。待ちましょう」
「それにしても、まりちゃんは凄いなあ。あの恐ろしい赤雲を一瞬で吹き飛ばしてしまうなんて」
『えへへへへ』
「今日はどうするんですか?」
「田村君と平田君は署に行かないといけません。私は午前中はちょっと、得意先を回って来ます。寺西教授と、寺戸さんと小林君は大学が休みです」
「そうか。じゃあ何しようかな」
「取り敢えず何かあるまで待機していて下さい」
 小林が僕の方に身を乗り出して言う。
「佐伯さん。僕と棒刀を作りましょう!」
「あら、それならトランプ占いの方がいいわ」
 しかし、僕はどちらもする気にはなれなかった。
「いや、僕は今日も体を鍛えておくよ。いざとなったら、大変だから」
 僕は後藤屋のはなれで、懸命にトレーニングを始めた。特に左腕を集中して鍛えるメニューを作って、それを順調にこなしていった。そばでは胡蝶とまりちゃんが座って眺めている。暫くしてお店の店員さんが僕の所へやってきた。
「あのう、佐伯はん」
「ん? ああ! 何でしょうか?」
「旦那はんからお電話どす」
「後藤氏から? 何かあったのかな?」
 物置から出るとお店の玄関に急ぎ、受話器を取った。
「もしもし、佐伯です」
「ああ、すみません。後藤です」
「何でしょうか?」
「実は、大変な事になりました。理由は聞かずに、すぐに比叡山の延暦寺に来て下さい」
「比叡山? またどうして?」
「実は大変な発見をしたのです。例の舎利に関する事です。詳しい話は後でします。とにかく急いで来て下さい」
「はい、分りました。じゃあオデッサ号で」
「いえ、目立つからバスかタクシーにでも乗って、一人で来て下さい。お金は後で払いますから」
「はあ、分りました。一人でですか?」
「いや、他のメンバーがいてもいいのですがね。できたら貴方一人の方が身軽でいい」
「分りました。理由は後で話して下さるんでしょう?」
「ふふふふ、そういう事です」
 相変わらず謎めいたイタズラが好きな人だ。
 そう思って服を着替えた。もしかしたら善界に関する事かも知れない。
『光司、どこかに・いくの?』
 胡蝶が首をかしげて言う。
「実はさ、後藤さんが比叡山の延暦寺に一人で来てくれっていうんだよ」
『延暦寺? 何か・あるの? 修ちゃん・仕事は・もう・終わったの?』
 『修ちゃん』とは、胡蝶やまりちゃんが後藤氏を呼ぶ時の呼び名だ。
「何でも大変な発見をしたらしい。目立たないようにタクシーかバスですぐに来いってさ。あの人らしいけど」
『胡蝶も・行こうかな』
「まあ、いいって。比叡山で土産でも買ってくるよ」
 後藤屋を出ると、白川通からバスに乗ってゆく事にした。後藤屋からだと二時間以上はかかる道のりだ。途中、バスの中で僕はうたた寝を始めていた。
 僕が出た後、暫くして田村刑事と平田刑事が入れ替わるように、後藤屋へと向かっていた。
「全く、あの本部長には頭に来ますね!」
「まあまあ、あんなのは右から聞いて左から抜けばいいのさ。ノンキャリに腹を立てていたら身が持たないし損だよ」
「それはそうですけど」
 平田刑事は口をとんがらせた。
「僕なんかもうあれに三年も、つきあってるんだよ」
「うええ、よく身が持ちましたね!」
「ハハハハハ!」
 二人は笑いながら後藤屋に昼食に入っていく。呉服屋に昼食とは妙な感じだが。 「あ、お帰りなさい」
「た〜だいま!」
 二人の刑事は後藤屋の奥座敷で丁度、小林と寺西教授とはちあわせになった。
「もう、お昼の準備はできたのかな?」
「ええ。今、寺戸さんがやっていますけど。ところで佐伯さん知りませんか?」
 寺西教授が言う。
「オデッサ号の事で、手伝って貰いたい事があったんですが」
「はなれで体を鍛えてんじゃないの?」
「それがどこにもいないんですよ」
 小林が腕をくんで悩んでいる。
「じきに戻ってくるでしょうよ」
『光司なら・比叡山に・行ったわ』
 胡蝶とまりちゃんが、暖簾の間から顔を出した。
「比叡山だって? 何のために?」
『さっき・修ちゃんから・電話が・あって、比叡山の・延暦寺に・一人で・来るように・いわれたって・言ってたわ』
「延暦寺? 何のためだろう。一人で?」
『ウン』
「オデッサ号も使わずに、比叡山に来いなんて変ですね」
 寺西教授が眉をしかめたその時、後藤氏が外から帰ってきた。汗をかいてハンカチでしきりに額を拭いている。
「いやいやいや、参りました。途中で車がパンクしちゃいましてね、直すのに苦労しましたよ! 佐伯さんでも呼ぶんだった!」
「後藤さん、佐伯さんを呼んだんじゃなかったんですか? 比叡山に」
「比叡山? 何の事です? 僕は今日はそっちには行ってないですよ」
 後藤氏が目を丸くして言う。
「あっ!」
 途端にその場にいた全員が顔を青くした。
「しまった! 罠だ!」
「佐伯さんが危ない!」
 急いで全員はオデッサ号に向かって走った。田村刑事が運転席に飛び乗り、エンジンをスタートさせる。
 グウオオンン! という排気音と共にオデッサ号の巨体が震える。
「ちょっと田村君! どうしたんですか? 慌てて」
「いいから後藤さんも寺戸さんも乗って下さい!」
「だって、お昼御飯」
「お昼はいつでも食べられる!」
 小林が強引に寺戸の手を引っ張る。エプロンをしたまま寺戸もオデッサ号に乗り込んだ。
「発進! 目標は比叡山延暦寺!」
 パネルのスイッチを押すと、オデッサ号を乗せたリフトは一気に上昇し、コンクリート製の左右の壁が開いていく。
「無事でいてくれよぉ!」
 激しい勢いでオデッサ号は道路に飛び出した。しかし通りに出ると道路は渋滞していた。
「こういう時はこれだ!」
 田村刑事が手元にあるスイッチを押すと、オデッサ号の屋根の一部分が回転して、回転灯がクルクルと回り出す。続いてサイレンの音が鳴り響いた。
「緊急車両が通過します! 速やかに道を空けなさい! こら、前のトラック! お前やお前! どけっちゅうのが分らんのか!」
 田村刑事の怒鳴り声で周囲の車が慌てて飛びのいていった。暫く飛ばしていると田村刑事のポケット・ベルが突然、鳴り始める。舌打ちして田村刑事はオデッサ号から電話をかけた。
「もしもし! こちら田村。えっ、比叡山の無動寺で大量の死体? 丁度いい! 今、比叡山に急行している所だ!」
「やっぱり疾鬼が関係しているのかな?」
「と〜ぜん!」
 オデッサ号は比叡山ドライブウェイを飛ばしていく。急カーブを曲る度にタイヤが唸りを上げた。 

「う〜ん。むにゃむにゃ」
 僕はバスの中で目を覚ました。周囲の景色を見ると杉木立の深い山並が見える。それが遠くまで幾重にも重なって続いていた。琵琶湖や京都市街もよく見降ろせるようだ。
「凄い、鞍馬山みたいだな」
 感心しているうちにバスは頂上に着いた。延暦寺の根本中堂の前で僕はバスから降りた。
「ここが本堂だよな。よくよく考えたら延暦寺の中って色々あるんだよなあ。それにしても、妙なことに今日は誰もいないぞ。後藤さんはどこだ?」
 どっちに進めばいいのか迷ったが、取りあえずは根本中堂の奥に入って見る事にした。薬師如来像を見ながら歩いていくと、延暦寺創建の時から消えた事がないといわれる法燈が見えていた。
「これを消したら怒られるだろうなあ」
 呑気に考えながら境内を歩いていく。大講堂といわれる場所も覗いて見たがやはり誰もいない。諦めて根本中堂から外に出た。
「どうしようかな。延暦寺会館にでも行ってみるかな」
 缶コーヒーを飲みながら、観光客用のガイドの看板を見ていた。その時だ。
「助けてくれー!」
 突然、頭上の方から人の叫び声がした。その方向を見て思わず僕は缶を地面に落とした。
「人鬼だ! どうしてこんな所に。まさか!」
 一瞬、その襲われている人物が後藤氏ではないかと思った僕は即座に善界の弓を呼び出した。
 キイインンンン! と音がして善界の弓が現れる。
[小僧、どうした?]
 弓が話しかけてくる。
「人鬼だ!」
 そのまま僕は、声のした方向に走っていった。やがて坂の途中まで来ると二匹の人鬼に、一人の若い僧が追いかけられているのが見えた。
「くそっ、もう間に合わん! どうする?」
[小僧! こうするんだよ! い出よ! 鬼雷矢ー!]
 激しい稲妻と共に、目の前に二本の鬼雷矢が現れた!
「なあるほどね!」
 鬼雷矢を二本、つがえると一気に弓をひいた!
 キュウオオオンンンン! という唸り声と共に、二本の鬼雷矢は人鬼の体を一匹ずつ貫いていた。人鬼はギャアアア!と悲鳴を上げると瞬時に蒸発していった。走りよって若い僧を助け起こす。
「大丈夫ですか?」
「ああ、何とか。どうもありがとう」
 若い僧は両手を合わせると、よろよろと立ち上がった。
「ちゃんと歩けますか?」
「申し訳ない。見知らぬ人にこうまでして貰うとは、しかし今の化物はなんだったのだ?」
「どこで襲われたのですか?」
「はい、この先の法然堂という所です。まだいるかも知れない」
「貴方はここの僧ですか?」
「はい、私の名は剛凛といいます」
 若い僧は僕を見上げて言った。
「あの、貴方のお名前は? あんな化物を一撃で倒すなんて、並みの方とは思えないが」
「いやあ、大した者じゃありません」
 剛凛を助け起こすと肩を貸す。僕等はそのまま法然堂へと向った。しかし歩いていくに連れて剛凛の顔色はますます悪くなっていく。
「あの、救急車でも呼びましょうか?」
「いえ、大した事ありません」
 法然院に着き、周囲を警戒した。いつ疾鬼が現れるか分らない。
 突然、グエッ! という吹き出すような音と共に剛凛の口からは大量の血が吹き出した。
「剛凛さん? どうしたんだ!」
『グオオオオ!』
 叫び声が上がったかと思うと突然、剛凛の体は変形を始めた。体中の皮膚がめくれ上がり、毒々しい色の真っ赤な色をした皮膚が現れる。たったの数秒で剛凛の体は疾鬼と化していた。
「何?!」
 気がついた時には疾鬼は僕の体を絞め上げていた。
「しまった!」
『罠にかかったな佐伯光司、ワシの左腕を奪った恨み! ここで晴させて貰うぞ!』
「ぐぐ!」
 疾鬼の右腕がどんどん僕の首を絞め上げていく。目の前が景色が霞んできた。
『ケケケ! お得意の弓もこれでは使えまい! 観念しろ!』
「ぐああ!」
 骨がミシミシと軋む音が聞こえてきた。その時、ヒュウウンン! という音が響いたかと思うと、疾鬼と僕は円形の結界に包まれ始めた。地面をなぞっていくようにつむじ風が巻き起こる。
『な、何だ? この結界は!』
「!」
 バシッ! という音が響き、円形の結界が完成した途端、疾鬼に向って激しい電撃が浴びせられた。疾鬼が悲鳴を上げる。
『ぐおおおおおお!』
 電撃にたまりかねた疾鬼は僕を離して、結界から外に飛び出した。それを待っていたかのように一人の僧が飛び出してきた。
「疾鬼! 覚悟ーっ!」
『何?!』
 ドシインンン! という音と共に僧が手に持っていたこん棒で一撃を加えた。そのまま疾鬼は砂利の地面の上を十メートルくらい、ふっ飛ぶ! だが次の瞬間には疾鬼は体勢を立て直し、両手から衝撃波を放っていた。
 ズガアアンン! という音と共に周囲の砂利が吹き飛んでいく。
「グウ!」
 僧は衝撃波を必死に耐えている。
「善界の弓よ! 姿を現せ!」
 僕はその間に弓に呼びかけた。キイインンン!という音と共に左腕に善界の弓が形成される。
[い出よ! 鬼雷矢〜!]
 弓が叫ぶと同時に鬼雷矢が姿を現す。だが、疾鬼に狙いをつけた瞬間、大勢の人鬼が回りの杉木立から飛び出してきた。
「くそっ! どきやがれ!」
 人鬼の群れに鬼雷矢を放つ! 空を裂くような音と共に、一瞬にして十数体の人鬼が消し飛んだ!
『グオオ、佐伯光司め! 段々と弓のパワーが上がっておるとは!』
 だが人鬼は後から後から飛び出してくる。
「一体、何匹いやがるんだ?」
 僕と僧は次第に押され始めていた。
『そろそろ止めとゆくか!』
 疾鬼がそう言いながら堂の屋根から飛び降りた時、突然、巨大な炎が人鬼達を襲った。
『グワアアアアア!』
 叫びながらあっという間に人鬼達が何匹も蒸発していく。
『何だと!?』
「そこまでだ! 鬼共!」
 振り返るとオデッサ号が猛ぜんと砂煙を上げながら突進してきた。僕達の前でブレーキ・ターンをするとオデッサ号は方向を変え、バスターの発射口を疾鬼の方に向ける。田村刑事が拡声器で怒鳴っている。
「しんみょうにお縄を頂戴しろ! 疾鬼!」
『ケッ! 何が来たかと思ったら!』
「玉砕バスターを舐めるなよ!」 
 田村刑事はそう叫んで引き金を引く。発射口が真っ赤に光った!
 ドオオオオオンンンンンンン! と猛烈な炎が法然堂の屋根を走る。しかし疾鬼は身を翻すと、一気に法然堂の屋根から杉の巨木の上に飛び上がった。
『勝負はおあずけだ! 命拾いしたな! 佐伯光司!』
「待ちやがれーっ!」
 疾鬼の方に狙いをつけた時、既に疾鬼の姿は視界から消え失せていた。
「ちっきしょう!」
 悔しがっている僕の前に、今の僧が駆け寄ってきた。そして善界の弓を見て体を震わせた。
「そ、それは善界の弓、魔神の武器だ! どうして貴方が?」
「えっ? どうしてこれを知ってるの?」
「私の名は草凛。この延暦寺に仕えております。どうぞこちらへ」
 僕達は草凛と一緒に法然堂から離れると、根本中堂へと戻ってきた。大講堂の前にオデッサ号を止め、腰を下ろして暫く話し合う。一体、この僧は何者なのか? 疾鬼とまともにやり合うとは。
「私と兄の剛凛は昔からこの延暦寺に仕えておりました」
「剛凛って、さっき疾鬼になってしまった人ですか?」
「はい。剛凛は魔王に魂を売ったのです」
「売った?」
「兄の剛凛は我々の間では代々禁じられている秘教に手を出したのです」
「秘教か」
「兄がどうしてあんな邪教に手を出したのかは分りません。しかしそれからの兄は日ごとに変になっていきました」
「どんな風に?」
「兄は元々、優しい内気な男でした。それがある日、突然に粗暴な振舞をするようになったのです」
「どんな振舞をですか?」
「始めは女、子供をいたぶったり、気にくわない人間に喧嘩を売って、痛めつけたりしたりしていました。ところがそれが段々とエスカレートしていって、とうとう私はある日、見たのです。兄が夜中に人の死体を喰らっている所を」
「死体を!?」
「ええ、たくさんの人鬼達と一緒に喰らっていました。私は兄と話すのが恐ろしくなりました。それから暫くして兄は突然、行方不明になったのです」
「何て事だ。それはいつの事ですか?」
「何年も前です。回りの僧達はきっと兄が辛い修業に絶えきれずに神経衰弱になって逃げ出したんだろうというのですが。私は兄があそこまで変わった原因は秘教にあると思うのです」
「なるほど」
「しかし驚いた事に。三日前にその行方不明の兄が突然、帰ってきたのです」
「帰ってきた?」
「はい。でもかなりの錯乱状態でした。『俺を助けてくれ!鬼に取り殺される!』とか『鬼が乗り移った!』とか叫んで山の中を走り回ったりしました」
「鬼が乗り移った? さっきの疾鬼の事かな?」
「おそらくそうだと思います、兄は既に人間ではありません。私は、兄の仇を打つつもりです。あそこまで兄を変えてしまった奴を、決して許さない!」
 草凛はそう言うと拳を握り絞めた。
「私の話はこれだけです。貴方の事を教えて下さい」
「僕の事ですか? 何と言ったらいいのか」
「あの善界の弓をなぜ、持っているのですか?」
「あれはそのう」
 そう言うと僕は頭を掻いた。どこから説明していいのか分らないのだ。
「佐伯さんはですね、善界の直系の子孫にあたるのですよ」
 後藤氏が草凛の横に座って言う。
「この方がですか? あの善界の?」
 草凛は信じられないといった表情で僕を見ている。
「なるほど、それであの弓を。普通の方があの弓を呼び出しているのでビックリしました」
「そんなに珍しいんですか?」
「善界の弓は魔神の力を持つ者にしか扱えません」
「魔神の力?」
「逆をいえば、魔神になりきらないとあの弓のパワーは全部、生かせないのです」
「そうですか…」
 僕は暫く考え込んでいたが、やがて後藤氏の方を向いて言った。
「そういえば後藤さん。今日の電話は何だったんです? 幾ら待っても来なかったし」
「違うんですよ、佐伯さん。貴方に電話したのは疾鬼の奴です」
「疾鬼? 何だって?」
「つまり後藤さんの声を真似したんだろうね。疾鬼が」
「佐伯さんも完全に騙されたという訳です。ハッハッハッ!」
 例のごとく後藤氏が大声で笑う。
「まさか声色まで使うとは。でも、どうして後藤屋の電話番号を知っていたんだろう?」
「私もここの人には知り合いがたくさんいますからね。人鬼に取り憑かれた人が私の電話番号を知っていても不思議ではないでしょう」
「後藤屋は大丈夫なんですか?」
「まだどれくらい、危険があるか分りませんがね。取りあえず、あそこでの集会は辞めた方がいいかも知れません」
「さて、行きますよ。佐伯さん」
 田村刑事が腰を上げる。
「どこへですか?」
「このすぐ下に無動寺というのがあってね。そこでも今日、大量の死体が発見されたんです。今から調査に向います」
「了解」
 草凛も乗せたオデッサ号は根本中堂を下り、途中から横道にそれて無動寺に向っていく。

 真っ暗闇の比叡山の上空に、多くの妖怪達が集結しつつあった。疾鬼からの思念、善界の弓の発動。消滅した人鬼達の怨念。それらの見えない波動が空気中に伝わって、確実に京都中の妖怪達に届いていた。妖怪達は荒れ狂い、歓喜の声を上げて延暦寺の方に向う。口々に叫びながら。
『見つけたぞ〜』
『ついに我等の敵が見つかった!』
『殺せ!』
『殺せ!』
『赤雲もやられたのか〜!』
『善界の弓を! 蘭火を破壊せよ!』
『我等には破壊あるのみ!』

 延暦寺の上空は嵐の前の静けさにシンとしていた。地獄の惨劇は夕焼けと共に始ろうとしている。
 僕達はオデッサ号を明王堂の前に止め、殺された遺体の処理をしていた。今回は周囲に大勢の警官や報道陣はいない。あまりにも奇怪な出来事だったので、ついにこの一連の事件は田村刑事に一任されたのである。仁和寺の五重の搭の件もあり、この惨状をこのまま報道したら京都中が、いや日本中がパニックに陥り、観光事業への影響も懸念されたためである。皮肉な事に、年間の収入を観光客で補っている京都府の財政が今やはぐれデカ、田村刑事の肩にかかっているのである。
「全く、これで何人目だろう?」
「これで三十六人も見つかりました」
 寺戸を除いた他のメンバーが、遺体をタンカに乗せながら言った。堂の中には遺体が何列も並んでいた。
「やっぱり疾鬼の仕業でしょうか?」
「疾鬼は剛凛に乗り移ってから延暦寺に戻り、すました顔で修業していたんだろうな。何て奴だ」
「剛凛さん自身は、乗り移られた事に気づいていたのかな?」
「『俺は取り殺される!』と喚いていたんだろ? おそらく自分に憑いた疾鬼が、仲間を皆殺しにする事を知っていたんだな。だけどどうしようもなかった」
「待てよ? 草凛さん! あんたはどうして生きてるの?」
「昨日、私は本堂の使いで別の寺に行っていたんです。だからたまたま難を逃れたのです」
「不幸中の幸いか。うっ!」
 突然、左腕に鋭い痛みが走る。続いてまりちゃんが、胡蝶が、草凛が夕焼けの空を見上げた。
「来る!」
「ああ! 弓も共鳴している」
「何です? 佐伯さん」
「来るぞ! 妖怪達が! 僕達に恨みを持った奴等がてんこ盛りでね!」
「ついに来ましたか!」
『光司、今度は・一気に・来るつもりだわ! 鬼芭王の・ために・最後の・総力を・連中は・注いでいる!』
「分ってるよ! 一応、用意はしとくぜ!」
 左腕を夕焼けの空に向けた。
「善界の弓よ! 出て来い!」
 キイインンンン! という音と共に左腕に光の渦が走り、善界の弓が形成された。
[ついにきたか! あ奴ら]
 弓が低い呻き声を上げる。
[小僧、いいか? 始めから全力で射つなよ。無駄弾はなるべく控えろ。さもなくば精神力が持たんぞ]
「分ってる。だけど、どうしても震えが止らないよ!」
 一方、オデッサ号では超常現象調査会のメンバーが必死で整備をしていた。
「小林君、バスターの燃料はOKですか?」
「大丈夫。満タンです! ロケットランチャー用のミサイルもたくさんあります」
 寺西教授と平田刑事がバスターを撫でながら言う。
「こいつでどこまでやれるかなあ?」
「あまり遠くに発射すると燃料の無駄だし、火力も弱くなりますからね。なるべく引きつけて打つのがポイントです」
「攻撃の指揮は後藤さんがします」
「はい了解」
 平田刑事は頷きながら、拳銃の弾を数えていた。小林は棒刀を磨く。
 やがて、善界の弓の反応が序々に強くなっていく。僕の心臓は早鐘のように鳴り、額も手も汗ばんできた。
[小僧! そろそろだぞ!]
「オーライ!」
 弓を構えた! 空を見上げると、巨大な黒い影が近づいてくる! 何百、何千という黒い影が巨大な雲のように夕日をバックに影絵のように浮き上がっていた。
「あああ! あんなにたくさん!」
 小林が目を丸くして叫ぶ。
「空が三分で敵が七分か」
 後藤氏が呻く。
「ここでひるんだ方が負けだぜ。皆、根性据えろ!」
 田村刑事が拳をパチッ!と鳴らしながら言った。
「佐伯くん、攻撃開始!」
 後藤氏が叫んだ。
[い出よ! 鬼雷矢〜〜〜!]
 ズバババババババ! という音と共に鬼雷の矢が現れる。それをゆっくりと、満身の力を込めて引く。
「行くぞおおお!」
 ドキュウンン! という虚空を貫くような音と共に、鬼雷矢の一閃が夕暮れの比叡の空を貫いていく! 巨大な妖怪の群れの中に大穴が開いた! それを待っていたかのように、妖怪達も身を踊らせて突っ込んでくる!
『胡蝶! ひと暴れするわよ!』
『合点だ!』
 まりちゃんと胡蝶はフワリと浮き上がると、途端に全身を青い球状の光に包んだ。ドンッ! と音がしたかと思うと、二人は一気に見えなくなった。
「後藤さん! 第一波! 来ます!」
「ギリギリまで引きつけろ!」
 様々な妖怪達がオデッサ号めがけて突っ込んでくる!
「後藤さん!」
「撃てーっ!」
 ドオオンンン! と激しい波動と共に巨大な炎が、一直線に走る!
 突っ込んできた妖怪が『ギャアアアア!』と呻き声を上げてたちまち蒸発していく。
 バスターで撃ち洩らした妖怪を草凛が、引きつけた!
「破!」
 草凛の両手から、エネルギーが弾けた! 周囲の妖怪が引き裂かれていく。
 僕も連続で弓を引いていた。もう、辺り構わず無我夢中である。
 空中にいた、まりちゃんと胡蝶はそのまま妖怪達の群れに飛び込んでいく!
『行くわよ! 雑魚共!』
 まりちゃんの瞳がカッ! と真っ白になると、凄じい量の破壊光が四方八方に飛び散る! 無差別発砲である。光に捕らえられた下級の妖怪達が、次々に落下していく。撃ち洩らした雑魚を胡蝶が鬼雷獣で破壊していた。地獄の闘いが延々と続く。
「京都には、まだこんなに妖怪がいたのかよ!」
 だが、ハッと我に返った。疾鬼は何処だ? 何処にいる?なぜ出てこない? そう思った時、突然足下で地鳴りが始った。ズズズズズ、という鈍い音が響き渡る。まりちゃんと胡蝶は遥か上空でその音を聞いていた。
『比叡山が、泣いているわ』
 足下の揺れは段々と激しくなり、まともに立っていられなくなってきた。
「ど、どうなってんだ? こりゃ!」
 ドオオンンン! という激しい音と共に、目の前の地面が一気に吹き上がった。
「地震か?」
 だがその爆発は僕達の周囲を包み込むように、間隔をジリジリと縮めてきた。
「くそ、足下が揺れてまともに射てない!」
『胡蝶、戻るわよ!』
 まりちゃんと胡蝶は近くにいた妖怪達を吹き飛ばすと、一気に下に戻ってきた。
「疾鬼! 何処にいるー?!」
『ケケケケ! 小僧! ワシがこの辺の地脈を扱える事を、思い知らせてやろう!』
 何処からか疾鬼の声が聞こえてくる。まともにぶつかっても勝算がないと思ったのだろうか? そう思った時、最後の爆発と共に疾鬼が地面の中から飛び出してきた!
「今だ! 結界を張れ!」
「破!」
 後藤氏が叫ぶと同時にまりちゃんと胡蝶、草凛が一斉に両手をかかげて三角形の結界を形成した。途端に疾鬼はその中に巻き込まれた。
『グオオオ!』
「佐伯さん! 鬼雷矢だ!」
 後藤氏が叫ぶ!
[い出よ! 鬼雷矢!]
 弓の声と共に稲妻のような鬼雷矢が現れる。
「疾鬼! これで終わりだ!」
 ズギュウウウンン! という音と共に鬼雷矢が疾鬼めがけて突っ込んでいく。この瞬間、誰もが鬼雷矢が疾鬼の体を貫いたと確信した。だが…。
「ああ! ば、馬鹿な!」
 疾鬼は右手で鬼雷矢を受け止めていた。そのまま矢を空に放り投げてニタリと笑う。
『馬鹿な奴! そう何度も同じ武器が通用すると思うのか?』
「な、なぜだ!?」
『ケケケケ! あの舎利の力を少しだけ使わせてもらったのよ! おかげで相当に妖力が上がったわい! 今度はこっちの番だ!』
 疾鬼がそう叫んで、右手を宙に向けて大きく開いた!
『カッ!』
 その一喝で、まりちゃん達の結界が破られた。三人は結界が弾けた勢いで吹き飛ばされる。だが、次の瞬間、バスターの発射口が疾鬼の方に向けられていた。疾鬼は至近距離でバスターの直撃を受ける。
『グワア!』
 ゴオオオオ! という音と共に疾鬼は、そのまま岩に叩きつけられる。体中をバスターの炎に包まれた。
「蒸発しやがれ!」
 田村刑事がモニター画面を見ながら叫んだ。だが、疾鬼の様子は変わってなかった。燃え上がる炎の中を疾鬼はゆっくりと歩いてきた。バスターの炎にも余裕の表情を見せている。
『愚か者め、ほうら、お返しだ!』
 今、疾鬼に向けられた炎がまるで生き物のように疾鬼の体を這い回っている。それがやがてオデッサ号に向けられて発射された!
「うわっ! 馬鹿な! 炎が逆流してきた!」
 オデッサ号の頑丈なボディが一瞬で黒焦げになる。塗装の焦げる臭いがして車内の温度が急激に跳ね上がった!
「寺西さん! どういう事だよ!」
「こっちだって、理解できないんだ!」
 あまりの高熱に後藤氏と寺戸が倒れた!
「後藤さん、寺戸さん!」
 鬼雷矢も、玉砕バスターもまるで歯が立たなかった。疾鬼は不死身になったのか?
『クククク、愚かな人間共よ、ワシの真の力を見せてくれるわ!』
 疾鬼はそう言うと、地面に右手をついた。
『ワシがただやみくもに、舎利を集めていたと思うのか?』
「何?」
『くらえ! 桁故伍拘侯庚紘邑偸傀傚傅兌兌!』
 疾鬼は凄じい形相で、奇妙な呪文を唱え始めた。途端に堂の中で並べていた死体が一斉に動き始めた!
「クソッ! 皆な人鬼になりやがったぞ!」
 田村刑事は拳銃を取り出すとオデッサ号から飛び出した。人鬼達はゾンビのように襲いかかってきた。田村刑事が弾丸の雨を降らしたが、人鬼達は倒れても倒れてもまた起き上がってくる。
『ケケケ! 人鬼よ! この連中を喰らいつくしてしまえ!』
「この野郎!」
 ヤケクソになって平田刑事も一緒になって、撃ちまくっていた。しかし幾ら撃ったところで人鬼の数は変わらなかった。
「駄目だ! 弾切れだ!」
「いかん! 草凛さんが!」
 気がつくと何体かの人鬼が、倒れている草凛に今にも喰らいつこうとしていた。
 慌てて弓をつがえた! だがその途端、今度は足元の地面が崩れ始める。
「ウワアアアア!」
『ハハハハ! これが最後の見せ物だ! 鬼地獄の中で永遠に苦しむがいい!』
 崩れ始めた地面はやがて、蟻地獄のような形になり、その中央部にオデッサ号が飲み込まれていった。
「ぐああああ!」
 鬼地獄の中はプラズマ化した小宇宙のようになっていた。地面の下なのに、下を見降ろすと無限の世界が広がっている。
 バリバリバリバリバリ! という音が走ったかと思うと、身を引き裂くような衝撃が走った! 同時に体中に鋭い痛みが走る。体中の皮膚が裂け、大量の血が吹き出す。
「うわああああ!」
 上の方を見上げると疾鬼が笑っている姿が見える。
「ハハハハ、きさまらは物質の最小単位にまで分解されるのだ!」
 必死で左腕を鬼地獄の天井へ向けた!
[い出よ! 鬼雷矢!]
 弓の叫び声と共に、鬼雷矢を呼び出す!
 ズギュウウウンンン! と雷光が走ったかと思うと、鬼雷矢は天井へ向けて突進していく! だが天井の出口へ差しかかると、鋭い電撃が走り、鬼雷矢は消滅してしまった。
「き、鬼雷矢の力を持っても、この天井は破れないのか?」
『無駄な事だ! この鬼地獄に一度はまったら、出られる奴などおらぬわ!』
 オデッサ号の装鋼もメキメキと音を立ててへこみ始めた。続いて窓ガラスが一斉に砕ける! バスターの銃身もねじ曲り始めた。
 もう駄目だ、僕も意識が朦朧としてきた。その時、弓の思念が僕の心の中に飛び込んできた!
[小僧! 最後まで諦めるな! まだ出られぬと決まった訳ではない!]
「でも、どうやって出るんだよ!」
[いくら天井に向けて撃っても、妖力が吸収されるだけで無駄だ! 下だ! 下を狙え!]
「下だと?」
[この地獄の下の何処かに、必ず心臓部がある筈だ! そこを叩け! 奴の幻術に惑わされるな! 心を落ち着かせろ!]
 消え入りそうな意識の中で必死で地獄の心臓部を探した。続いて胡蝶とまりちゃんの思念も飛び込んでくる。
『光司! 落ち着いて!』
『心臓部が見つかったら、そこを一気に叩くのよ!』
 そんな事分ってるさ! だけど、何処だ、心臓部は何処にある? 目を閉じると一点に神経を集中させた。落ち着けば見える筈だ。落ち着け! 必ず見える!
 激しい衝撃の中で、何処からか心臓の音が聞こえてきた。規則正しい音、この地獄を司どっている心臓が何処かで鼓動している。
 目を再び閉じると、静かに善界の弓を宙にかざした。
[い出よ! 鬼雷矢!]
 キイインンンンン! と音が響くと鬼雷矢が姿を現す。ドクン、ドクン、ドクン、と心臓の鼓動が前よりもハッキリと聞こえる。弓をつがえると一気に引いた。  見えた!
「右だ! 右下を撃て〜〜!」
 その声と同時に鬼雷矢が、まりちゃんのかざした手が、胡蝶の両手が右下の心臓部に向けられていた。
 ギュウオオンン! という音と共に三本の閃光が鬼地獄の心臓部を貫いた!
『グエッ?』
 突然、地上にいた疾鬼がその場にうつ伏した。震えながら痙攣している。それと同時に空中にいた妖怪達も、力を失ったかのように次々に墜落してきた。
『なぜ、なぜだ? なぜ、地獄の核≠ェ分ったのだ!』
 僕達が地獄の心臓部を貫いた瞬間! ゴオオオオオオ! と地獄の中の光が膨れ上がり、一気に吹き飛ばされた! 永遠に続くと思われた鬼地獄が崩壊したのだ。
「わあああああ!」
 ゴゴゴゴゴゴ! と地鳴りが響き、比叡山全体を揺るがし始めた。続いて激しい爆発と同時に土砂が舞い上がる。
 疾鬼は慌てふためいていた。
『なぜだ! このワシの作った完全な世界が崩れるとは』
 その刹那、ドオオオンンンン! という大音響と共に鬼地獄がふっ飛んだ! 中からモウモウと煙が立ち込める。
『グオ!』
 疾鬼は慌てて地獄の中を覗き込んだ。途端に目もくらむような青白い光が広がり始める。
『グアッ!』
 光に絶え切れなくなって、疾鬼は後ろへ転がった。続いて光の中からまりちゃんが飛び出してきた。青白い光の中でまりちゃんの金髪が揺れている。口元はキッと一文字に結ばれていた。疾鬼が再び起き上がろうとした時、目前に胡蝶が這い出してきた。
『生きていたのか!?』
『もう・遅いわよ!』
 胡蝶が右手を鬼の体に押し当てた!
『鬼雷獣!』
 ドオオオオオオン! と激しい衝撃が走り、疾鬼の体内で爆発音が響いた。
 さすがの疾鬼も鬼雷獣の直撃を喰らったら、かなり堪えたようだ。大音響と共に疾鬼の残った右腕がフッ飛んだ!
『グワアアアアア!』
 両腕を失った疾鬼はのたうち回っていた。その間にまた、まりちゃんがパワーを溜めていた。
『まり子、本気で怒った! お前、絶対に許さないから!』
 まりちゃんの目がカッ! と真っ白に光った!
 疾鬼はまりちゃんの発した衝撃波で押し潰された!
『グワアアアア!』
 疾鬼は身動きが取れないまま、全身を引き裂かれていった。
「とどめだ〜! いくぞおお!」
 田村刑事がオデッサ号の上部に取りつけてあるランチャーを疾鬼に向けた!
「ああ、田村さん待って! まだ心の準備が!」
 こんな至近距離でミサイルを撃ったら! 慌ててオデッサ号に駆け寄る。しかし時既に遅かった。完全に切れていた田村刑事は遠慮なしに引き金に指をかけ引き絞った。
「今度は普通の弾丸じゃないぜ! くたばれっ!」
 カッ! と閃光が走ったかと思うと、その光が尾を引きながら疾鬼を直撃し爆発した。その反動で田村刑事が後ろへ飛ばされた! 目の前が真っ白になる。と同時に、激しい熱風で全員がひっくり返った! オデッサ号の装甲の一部も剥がれて吹き飛んでいくのがスローモションのように見えた。後はよく覚えていない…。
 気がつくと風が吹いていた。そのまま寝返りをうつと青い空が見える。
「ああ、助かったのか」
 僕はゆっくりと起き上がった。どうやら一晩中、気絶していたらしい。回りの連中も色んな所へ飛ばされていた。
「やれやれ」
 朽ち果てた妖怪の残骸がいたる所で、転がっている。皆の傷の手当をしながら、明王堂のあった方を振り返ると、明王堂自体が消滅していた。ランチャーのせいか、まりちゃん達の起こした爆発のせいか、それはもうどちらでも良かった。僕は懸命に整備をしている平田刑事に言った。
「平田さん、オデッサ号の具合は?」
「何とかエンジンはかかります。だけど他の武器が、もう使えませんね」
「だろうね」
「玉砕バスターも駄目だ! 一つは大丈夫だけど、本格的に修理しないと」
 小林がレンチを放り投げた。
「田村さん、ランチャーは?」
「さっきの一発でオシャカになっちまった。やっぱり自衛隊の払い下げ品は駄目だな。でもスカッとしましたよ」
 うさが晴れたのか、田村刑事はニヤニヤ笑っていた。
「田村さんてあんな性格だったんだ」
「後は鬼芭王だけですね」
 後藤氏が、片腕の包帯を押さえながら言った。再びオデッサ号の方を見ると、中では寺西教授が何やらガチャガチャやっていた。
「寺西さん、何やってんの?」
「いや、探知機が使えないかなと思いましてね」
「もう無理だよ」
 しかし壊れかかった端末は何とか息をふきかえした。ディスプレイに波形が現れる。
「やったぞ、動き出した!」
「鬼地獄に入っても動くとは、さすがですね」
「寺西君、反応はありますか?」
 後藤氏がまりちゃんをクリーナーで拭きながら言う。
「今の所はありません。」
「了解、では下山するとしましょう」
 全員再びオデッサ号に乗り込んだ。田村刑事がエンジンをスタートさせるとスクラップ寸前のオデッサ号は何とかよろよろと走り出した。
「タイヤが外れなきゃいいけど」
「三十キロ以上出したらバラバラになりますね。こりゃ」
 僕等は草凛を根本中堂の前で下ろして別れを告げた。
「これからどうするんですか?」
「取りあえず延暦寺の再建に向けて頑張るつもりです。皆さん、本当に有難う。きっと剛凛も喜んでいる事でしょう」
「でも、殆どの人が亡くなっているのに。どうするつもりですか?」
「いえ、私には大事な使命がありますから」
「使命? どんな?」
「フフフ、それは秘密です。誰にもいってはいけないんです」
「そうですか。じゃあ、お寺が立ち直ったらまた来ますね」
「是非、いらして下さい」
後を振り返ると草凛がいつまでも手を振っているのが見えた。オデッサ号は朝焼けの比叡山を降りていく。後藤氏がひとり「モルゲンロート、モルゲンロート」とドイツの古い騎兵の歌をドイツ語で口ずさみはじめた。

 京都市内に戻った僕達は、後藤屋の地下格納庫にオデッサ号を収納した。完全に前の状態に修復するのは無理だが、何とか走れる状態にはしないといけない。超常現象調査会のメンバーは、一日ゆっくり眠った後、総出で修理に当たった。とはいえ僕達にできるのは部品の交換くらいである。探知機の方は寺西教授が一人でやっていた。
 自分のやる事がなくなると、僕は胡蝶を連れて外をぶらついた。哲学の道をのんびりと歩く。
『ねえ、光司』
 胡蝶が突然、話しかける。
『どっか、行きたい』
「どっかって、どこだい?」
『どこでもいい! 遊びに・行きたい!』
「でもなあ、またバスやタクシーで行くのも面倒だよなあ。渋滞すると嫌だしさ。バイクでもあったらなあ」
『バイク、あるよ。後藤屋に』
 僕は仰天して聞き返した。
「後藤屋にあるのか? 誰が乗ってるんだ? まさか後藤氏とか」
『違うの。オデッサ号の・サブマシン・として・造られたの』
「そりゃあいい! 早速、借りてどっかに行こう」
 胡蝶を抱えると走って後藤屋に戻った。しかし店に飛び込んで、バイクの事を言うと他のメンバーがそれをしぶった。
「バイク、借して下さいよう!」
「そりゃあ、駄目とは言いませんけどね。今は遊んでいる時じゃないでしょ?」
 平田刑事がたしなめるように言う。
「疾鬼が死んだとはいえ、今度は鬼芭王がいつ現れるか分らないんですよ。我々の態勢も早く立て直さないと」
「そりゃあ、そうですけど」
 そうやって問答していると後藤氏が出先から帰ってきた。
「どうしたんですか? 皆さん」
「佐伯さんが例のバイクに乗りたいと言うんですよ」
「なるほど、確かあのバイクはまだ完成してなかったですね」
「本来は田村さんがこのバイクに乗ってパトロールする筈だったんですよ。ところが、初乗の時に大ケガしちゃって」
「田村さんがですか?」
「いえ、田村さんに喧嘩売ったヤクザが」
 平田刑事が溜め息まじりに言う。
「ヤクザぁ?」
「因縁ふっかけてきたんで、少しこらしめてやったんだ。ところがそいつを問い詰めるとどうも、僕の事を面白く思ってない連中がいるみたいでね」
「なるほど、誰かの差し金だったと…」
「そう、それで頭にきたんでバイクに乗ったまま、そのヤクザの事務所に飛び込んでやった」
「何ともまあ、目茶苦茶な話ですね。どっかの漫画のオマワリさんみたいだ」
「ところが、その日、そこがたまたま白いカゼ薬の取り引き場所になっていてね。冗談みたいな本当の話。ヤクの発見がなかったら、クビになっていただろうね」
 田村刑事はニタニタしながら自分の武勇伝を語る。
「田村さんが何か事を起こす度に、僕は膨大な始末書作成ににつきあわされるんです。いつも監視していないと僕は恐くて恐くて」
 平田刑事が胃の辺りを押さえながら言う。その胃の痛くなるような苦労が分るような気がした。
「それはそうと、そのバイクは動くんでしょう?」
 僕は慌てて話を元に戻した。
「まあね。でも、まだどんな動きをするか、分らないんですよ。この間乗った時も派手に暴れてくれて、押さえつけるのに苦労したんです」
「そんなにパワーがあるんですか?」
「もう、天井知らず。佐伯さん、フッ飛ばされるのは覚悟しないと」
 田村刑事はタバコの煙を吐きながら、微かに笑って言った。 後藤氏が言う。
「まあ、問題ないと思いますよ。再試乗という事で彼に乗って貰いましょう。このままにしておくのも惜しい気がしますしね」
 ガレージに行くと、そのバイクはホコリをかぶったまま角の方に押しやられていた。
「だいぶ改造してますからね、かなりの馬力が出ると思いますよ」
 そのバイクを見て驚いた。
「ちょっと、これって何のバイクが元なんですか? 確かモトクロス・レースなんかで使うやつみたいだ!」
 寺西教授が笑いながら言う。
「確か大本はHONDAの二五〇CCのバイクだったと思います。オデッサ号を作った時の余った部品で大改造を施しました。その上に保安部品をつけて車検に通しました」
「ど、どうやったら、これで車検が通るの?」
「書類なんかは田村刑事に頼みました」
「信じられない」
 僕はあらためてそのバイクの細部を見渡した。これに保安部品つけただけで乗れるのだろうか? それにこんなバイクが京都のこんな所にあるなんて。
「一応、町乗りができるようにはしていますよ。キック・スターターなんかもついていますから。でもアクセルの開けすぎに気をつけて下さい。空を飛びますよ」
「そうでしょうね」
 バイクをガレージから出すとチョーク・レバーを引っ張り、一気にキックを踏みおろした。バアアアンンン! という音と共にサイレンサーの部分から真っ白な煙が吹き上がる。やがて回転が安定してくるとチョーク・レバーを戻して、僕はヘルメットを被った。
「気をつけて下さいね! あくまで試乗ですからね!」
 平田刑事が僕の耳元で怒鳴る。
「了解! オデッサ・Jr、発進します!」
 胡蝶を後ろにしがみつかせると、バイクをそろそろと表通りに出した。
 白川通りを通って丸太町通りを経て鴨川沿いに下り、京阪五条から清水寺を通って戻るつもりだった。
「事故でも起こされたら大変だなあ。ただじゃすまない気がするぞ」
 田村刑事がニタリと笑うのを横目に平田刑事が胃の辺りを押さえていた。
「行ってきまーす!」
 皆の不安をよそに、僕は元気よく大声でそう言うと走りだした。
 小林が田村に聞く。
「田村さん、本当に大丈夫なんですか?」
「どうだろう。確かに嫌な予感はするね」
「だったらどうして行かせるの?」
「いっても聞かない気がするし、何だかこうなる事が必然のような気もするんだ」
 田村刑事のこの直感は当たっていたのである。
 白川通りに出た僕は、東天王町の交差点を左に折れ、河原町丸太町に向かって走っていた。初春の風が体に心地好い。
「いい天気だなあ。思わずうかれてしまうねエ」
 そう言うとアクセルを一気にひねった。クワアアアア! とエンジンが唸り、途端にバイクの前輪が浮き上がる。
「おっとっと! 危ない!」
『キャハハハハ! 飛ばせ、飛ばせー!』
 胡蝶が後ろでうかれている。僕は元々バイクを飛ばすようなタイプではないので、ゆっくりと走って行く事にした。鴨川の景色を眺めながら。
『ネエ、光司』
 胡蝶が僕の服を引っ張る。
「何だ?」
『アレ・ナニ?』
 胡蝶が指差す方向を見ると、何かが川の中を泳いでいるようだ。真っ黒な影が僕達の乗るバイクに、ついてきているかのように見えた。
「何だろう? でっかい魚かな?」
 しかしその黒い影は、水面に近づくにつれて、段々と大きくなってくるのが佐伯には分った。次第に左腕も痛みが増していく。
「ま、まさかあれは!」
『妖気を・感じる!』
 突然、川の方からドバアアアアア! という音がしたかと思うと、何かが水の中から現れた。そのまま黒い影は水面に飛び上がる。 
「な、何だ? ありゃ!」
 次にその怪物は巨大な水しぶきを上げながら、再び川の中に潜った。
『光司!』
「あんなにでかいのは、きっと妖怪だ!」
 どうする? このまま後藤屋に戻って皆に連絡するか? しかしあの巨大な妖怪はどこに進んでいるのか。疾鬼の仲間だったら大変だ。また死人がたくさん出る事になる。
「よし、行くぞ!」
 僕は一気にバイクのアクセルを吹かすと、そのまま黒い怪物を追い抜いた。頭の中でこれからどうするかを考える。
 取りあえず四条大橋まで行って、あいつを善界の弓で待ち受けるしかない! 一気にアクセルを吹かして、タコメーターをレッド・ゾーンまで叩き込んだ! クワアアアアアア!とエンジンが吹き上がり、前輪が高々と浮き上がる。一気に周囲の景色が後ろへ流されていく。バイクのタンクに身を伏せると、僕はそのまま突っ走っていった。いくつかの信号をやり過ごし、やつよりも早く四条大橋につく。ブレーキ・ターンをして橋の近くにバイクを止めた。
「胡蝶、行くぞ! 善界の弓よ、姿を現せ!」
 キイインンンンン! という音と共に、善界の弓が形成された。
 やがて猛烈なスピードで先程の巨大な怪物が近づいてきた。
[い出よ! 鬼雷矢!]
 弓の声と共に、鬼雷矢が姿を現す。弓を思いっきり引くと、一気に鬼雷矢をそいつに向けて放った!
 ドシュウウウンンン! という音と共に、鬼雷矢が波間に向けて突っ込んでいく。
 だが次の瞬間、信じられない事が起こった。突然、怪物の回りの波が渦を巻き始めたかと思うと、それらの渦が何本も形成され、鬼雷矢を跳ね返したのだ!
「何? 跳ね返した!」
『光司! あぶない!』
 胡蝶がそう叫んだ時、怪物が真下に迫っていた。ドオオオオンンン! という音と共に怪物が川の中から飛び上がる。周囲の波があちこちに飛び散った! 怪物は頭上をそのまま通り過ぎていき、四条大橋を横断するとまた元の川の中に水しぶきを上げて飛び込んでいった。
「そ、そんな馬鹿な! 怪物が橋を飛び越えた!」
 再びバイクにまたがるとエンジンをスタートさせた。
「今度は五条大橋だ!」
 アスファルトの路面の上で、勢いよくバイクをターンさせる。白い煙がタイヤから吹き上がった。今度は五条大橋を目指して突っ走った。後には腰を抜かした観光客が何人か残される。
「な、何やぁ? 今、空を飛んでいった黒いんは」
「二十メートル以上はあったでぇ!」
『光司、もっと・飛ばして!』
「これ以上飛ばしたら、ぶっ飛んじまうよ!」
 一体、あの怪物は何なのか? 何の目的で鴨川の中を移動しているのか? それとさっきから胡蝶の様子が変な事に僕は気づいていた。あの怪物は胡蝶に関係があるのだろうか?
 あれこれ考えながら飛ばしていると、ようやく五条大橋が見えてきた。再び川の中を覗き込む。しかし川の中には何もいなかった。
「おかしいぞ! 何処に行ったんだ?」
『光司! アレ!』
 胡蝶の指差す方を見ると、巨大な渦が川の中に形成されている。その渦は一気に水面に飛び出すと、二十メートル近くの竜巻と化していた。物凄い水しぶきが吹き荒れる。
「どうなってんだ! あいつは!」
 やがて、その竜巻がおさまると、そこには巨大な怪物が仁王立ちになっていた。僕はこの怪物を何処かで見た事があるのに気がついた。
「あっ、あれは! 舞姑の人形?」
 まぎれもなく、その形は先斗町で僕を襲った舞姑人形だった。怪物は幾つもある巨大な手や足を動かし、その姿は巨大な蜘蛛が動いているようにも見えた。瞬間、あの時の光景を思い出した。
「どうして今頃出てきたんだ。胡蝶に破壊されたんじゃなかったのか?」
 やがて胡蝶はフワリと舞い上がると、その巨大な舞子人形の怪物に近づいていった。
『やっぱり・生きていたのね。舞華』
『あのくらいでうちがどないかなると思てはったん? 蘭火はん! わざとぉに手加減しやはったんと違いますのん?』
『あなたも・本気じゃ・なかったわ。だから・そうしたの』
 どう言う事なんだ? 胡蝶は鬼芭王の裏切り者だから、あの怪物の敵になっている筈だ。なのに二人の会話の仕方が次第にやわらかくなっている。どうしてなんだ?
『疾鬼は・もう・死んだわよ』
『うちはわざとおにお目にかかりにきたんどすえ。どうせ後は鬼芭王はんが復活しやはるのを待つだけどっさかい』
『あたしを・殺すの?』
『違いますえ蘭火はん。あんたはんにお願いがありますねん』
『オネガイ?』
『うちを殺して!』
『ナゼ?』
『お願い、殺して! このままやったら、うちはあんたはんをどないかしてしまう!』
 巨大な怪物は叫んだ! 僕はますます訳が分らなくなる。この二人は憎み合っていた筈じゃないのか?
『そんなこと・する必要は・ないわ! 一緒に・鬼芭王と・闘えば・いいじゃない!』
『しょうがおまへんの。うちは鬼芭王はんの操りもんやさかい、あんたはんを壊さへん限りうちの呪いも解けしまへん! あんたはんの命を切ろが、うちを操る糸を切ろが、いずれにしてもうちは闇に帰る運命…』
[あの二人はお前ら人間の世界でいう友達というやつだ]
 突然、善界の弓の思念が僕の心の中に響く。
「友達?」
[蘭火の奴が鬼芭王を裏切った時、多くの刺客が人間界に送られた。だがあの舞華だけは蘭火を殺そうとはしなかった。それで鬼芭王の怒りに触れて、あのような醜い形に変えられてしまったのだ]
「何てこった」
[舞華は今でも蘭火を恨んでいるだろうな。しかしどうしてもお互い、本気では闘えまい]
「おい、何とか元の姿に戻してやれないのか!」
[ワシには関係のない事だ。それに鬼芭王の術はまず解けない]
「何か舞華が助かる方法はないのか?!」
[それには舞華が死ぬしかない。死ねば鬼芭王の呪縛からも開放されよう]
「死んでどうするんだよ!」
 胡蝶と舞華は向き合ってなおも話し続けている。
『舞華、あなたが・そんな・姿に・なったのも・あたしのせいよ。だけど・鬼芭王を・倒すまでは・あたしは・死ぬわけには・いかない』
『委細承知の上どす。そやから早、うちを殺して!』
『それは・できない!』
『ああ、また気ぃが遠なってきた。蘭火はん! 早うお逃げやす!』
 舞華は川の中にうつ伏せになると、そのまま崩れ落ちた。
『舞華!』
 グオオオオオ! と叫び声が上がったかと思うと突然、怪物は襲ってきた! 巨大な手足が胡蝶に振り下ろされる! 舞華はまた元の怪物に戻っていた。
『舞華〜〜!』
 胡蝶は怪物の巨大な手で吹き飛ばされた! そのまま民家の屋根を突き破って遠くに飛ばされる。
「この野郎!」
 僕は怒りに我を忘れると善界の弓を呼び出した!
[い出よ! 鬼雷矢ー!]
 ズギュウウウンン! という音と共に、鬼雷矢が怪物の足の一部を破壊した! だがその程度では怪物はビクともしない。僕は再びバイクにまたがるとその場を逃げ出した。
「冗談じゃないぞ! あんな怪物!」
 やがて怪物は鴨川から陸に上がると、清水の方に向って地響を立てて歩き始めた。怪物の頭の中では何度も何度も同じ言葉が繰り返されていた。
『殺せ! 殺せ! 裏切り者の蘭火を殺せ! 跡形もなく破壊しろ!』
 グオオオオオオ! と唸り声を上げると怪物は胡蝶を探し始めた。その巨大な手足で次々に民家を破壊していく。
「やばい、このままじゃあ! よおし、見てろよ!」
 バイクに乗ったまま、怪物の足下をすり抜けた!
「へっへー! ここまでおいで!」
 怪物はこっちの方を追い始める。僕は頭の中で必死で考えていた。
延 暦 寺  どうしたらこいつを葬れるか? どうしたら。鬼雷矢じゃ限界があるし。
「うわっ!」
 まともに考える暇もなく、怪物の長い手足が襲ってくる。一撃でも喰らったらアウトだ。
「胡蝶! 何処にいった! 胡蝶ー!」
 その時、胡蝶は崩れかけた民家の中でグッタリとしていた。消え入りそうな意識の中で胡蝶はまりちゃんを呼ぶ。
『まりちゃん』
 その瞬間、後藤屋で皆なと遊んでいたまりちゃんの瞳がカッ! と真っ白になる。続いて全身が青い光に包まれ始めた。
「ど、どうしたんだ? まりちゃん!」
 後藤氏が慌てふためく。
『胡蝶が、呼んでる!』
 そう言うとまりちゃんの金髪が逆立ち、その部屋にあったテーブルやら本やらがたちまち宙に浮き始めた。
「まりちゃん!」
 ドオオオオンンンンン! という衝撃と共に、あっという間にまりちゃんは後藤屋から飛び出していった。
「くそっ! やっぱり何かあったんだ!」
 田村刑事達はそう叫ぶと、オデッサ号に向って走った。他のメンバーも慌ててついていく。
 とうとう怪物は清水の坂の所まで来ていた。周囲の車やトラックが怪物に衝突して大炎上を始めている。怪物の通った後は何もかも破壊されていた。清水の町が騒然となる。
「くそっ! このままじゃあ、どうにもならない!」
 既に警察や消防車が現地にかけつけていたが、怪物の姿を見ると皆、一目散に逃げ出した。
『殺してやる! 破壊してやる!』
 ボオオオオオオ! と怪物の口から火炎放射が飛び出す。それが市営のバスや土産屋を炎上させた! 中から大勢の人間が狂ったように逃げてくる。爆風で僕の乗ったバイクも吹き飛ばされた。
「うわっ!」
 転んだ所に巨大な手足が振り下ろされる! ズガッ! と音がしたかと思うとアスファルトに怪物の足が食い込んでいた。
「くそっ!」
 僕はバイクを捨てて走り出した。すぐ後を怪物が追う。
「このままじゃどうにもならない! 何か方法はないのか? うわっ!」
 慌てて、僕は何かに蹴つまずいて地面に転がった。容赦なく、怪物の巨大な足が唸りを上げて振り下ろされる。
「駄目だ! 殺される!」
 ズシン! と鈍い音が響いた。両手を顔で覆って最後の瞬間を待った。
「あれ? 死んでないぞ?」
 そう思って目の前を見た時、怪物の足は宙で止められていた。見るとまりちゃんがそれを受け止めている。
「まりちゃん!」
『ええ〜〜〜い!』
 まりちゃんが背負い投げの姿勢を取ると、巨大な怪物がフワリと浮き上がった!  そのまま反対方向に怪物が投げ飛ばされる! ズガアアアンン! という轟音と共に怪物は道路に叩きつけられた。だが怪物はすぐに起き上がると、また長い手足を振りかざして僕達に襲いかかる。
「まりちゃん! こいつは不死身だ!」
『一つだけ方法があるわ!』
「ど、どんな?」
 まりちゃんは僕の耳元に顔を寄せるとゴニョゴニョ、と囁いた。
「ええええ? そんな無茶な!」
『やるしかないわ! 行くわよ!』
 まりちゃんはドン! と音をたてて飛んでいくと、怪物の誘導を始めた。そのまま五条坂をどんどん昇っていく。
「ぼ、僕は知らないぞー!」
 怪物は道の両側に並んでいる土産屋や民家を破壊しながら、清水に続く坂道をどんどん昇っていく。僕は怪物の後に続いて走り始めた。怪物の破壊した店の瓦や商品が後から後から雨のように降ってくる。怪物はまりちゃんに誘導されながら茶わん坂に進路を変え、そのままもの凄い勢いで突き進む。周囲の民家の人達が慌てて避難を始めていた。誰かが半鍾を打ち鳴らし、怪獣映画そのままの光景が繰り広げられていた。
 僕は怪物を先回りするため、清水寺の仁王門から寺の境内に入っていく。
「どの辺で待ち伏せるかな」
 三重の搭の前を通り過ぎ、清水の舞台を通り過ぎてさらに奥の方に向って走った。丁度、清水の舞台が真向かいに見える所で足を止める。
「そろそろかな」
 やがて大音響と共に怪物の叫び声が聞こえてきた。仁王院を破壊しているらしい。続いて三重の搭が崩れていくのが見えた。歴史的な建造物が次々と破壊されていく。
「あああ! もう知らないぞ! 僕は!」
 左腕を宙にかざす。
「善界の弓よ! 出て来い!」
 キイイイインンンンン! という金属音と共に弓が形成された。その弓を清水の舞台の方向に向ける。
[小僧! そろそろきたか?]
「ああ! きたきたきた!」
 怪物が寺の本堂を破壊して、舞台になだれ込んできた。まりちゃんが紙一重の所を飛んでいる。怪物はついに舞台から身を乗り出し始めた!
[い出よ! 鬼雷矢!]
 弓の叫び声と共に稲妻のような鬼雷矢が現れた。満身の力を込めて弓を引く。
『光司! 今よ!』
 まりちゃんが叫ぶと同時に、両手を舞台の方に向けた! クワアアアアア! という音と共に巨大なエネルギーが膨れ上がる!
[小僧! 射て〜〜!]
 まりちゃんのエネルギーが弾けるのと、鬼雷矢を放つのが殆ど同時だった。
 二つのエネルギーが清水の舞台の支柱に激突する! 
 ドドドドドドドド! と凄じい爆発音がし、やがて清水の舞台は怪物を乗せたまま、轟音と共に落下していった。大地震のような音が清水に響き渡り、後にはおびただしい量の砂塵が巻き起こった。暫くは周囲が何も見えない状態が続く。
「やったか!」
 僕とまりちゃんは怪物が墜落した所まで走っていった。下の方を見降ろすと、まだゴオオオオ! と地鳴りの音が微かに残っている。やがて胡蝶が遠くの方から、静かに近づいてくるのが見えた。胡蝶は怪物が墜落していった所をじっと見つめていたが、やがてゆっくりと降下していった。
「胡蝶…」
 そう呟いて下から視線をそらした時、突然、下の方からガシイイイ! と何かが挟まれる音が響いた。慌てて下を見降ろす。
「胡蝶!」
 信じられない事に怪物はまだ生きていた。もうもうと上がる煙の中から二本の巨大な腕が飛び出しており、その先端には胡蝶が挟まれたままもがいていた。
「何て奴だ! まだ生きていたのか?」
 怪物は胡蝶を挟んだ両腕を、そのまま自分の顔の部分に引き寄せる。
「くそっ! 鬼雷矢で射ってやる!」
『駄目よ! 光司!』
 まりちゃんが慌てて制した。
「何でだよ?!」
『今、攻撃したら胡蝶に当たるわ!』
「うっ、」
 まりちゃんの言うとおりだった。確かに今の僕には胡蝶を傷つけずに、あの怪物を攻撃する自信はない。
「どうすりゃ、いいんだ!」
 胡蝶は痛みに耐えながらも、静かに舞華との過去の事を思い出していた。しかし今、目の前にいるのは舞華ではなく、ただ破壊だけを目的とした怪物なのだ。
『舞華。もう・どうしようも・ないのね』
『グオオオ! 胡蝶! 破壊してやる!』
 怪物の頭部からメキメキと音を立てて、巨大な爪が現われた! それが胡蝶の頭上に振り上げられる。
「胡蝶! 何やってんだ! 早く鬼雷獣を撃て!」
 凶悪な爪が胡蝶に向けて打ち下ろされた! だが胡蝶は次の瞬間、両手を怪物の顔面に向けていた。
『死ね! 胡蝶!』
『舞華、ゴメンネ』
 胡蝶の全身が青い光に包まれる。続いて両手から巨大な閃光が飛び出した! 『鬼雷獣! 召喚!』
 ズガアアンンン!
 猛烈なエネルギーが怪物を襲った! 続いて怪物の全身が衝撃波に引き剥がされていく。
『グワアアアア!』
 怪物は悲鳴を上げたまま、消滅していった。胡蝶の瞳には、あの怪物ではなく昔の友人だった舞華が映っていた。その唇が『うちを許しておくれやす』と動く。
『さようなら、舞華…』
「胡蝶…」
 僕は黙ったまま、胡蝶とまりちゃんを肩に乗せると、清水の坂を下っていった。  なるべく胡蝶の顔を見ないようにしながら。
「胡蝶」
『ン?』
「鬼芭王、絶対に倒そうな」
『ウン』
 五条坂を下り終えた所に、オデッサ号が静かに待っていた。
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