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8.鬼芭王の最期
 善界の弓の言ったとおり、まりちゃんは死んではいなかった。丁度、佐伯が再び立ち上がった頃、嵯峨野とは反対方向の東寺で物凄い爆発音が聞こえた。轟音と共に五重の搭が一気にへし折れたのだ。ドドドドド! と猛烈な砂煙を上げて四十メートルはある搭の半分が地面に墜落していった。驚いた二人の警備員が慌てて搭の方に駆け寄っていった。
「ひい! こないだ大量の死体が出てきたと思たら、今度は何なんや!」
「この寺、呪われてるんと違うやろか?」
 二人の男はおそるおそる近づいた。
「隕石でも落ちたんやろうか?」
「他には考えられへんで!」
 崩れた搭の入口から中に入って見ると、中にはもうもうと砂ぼこりが立ち込めていて、何も見えなかった。
「どないしよう? こりゃ無茶苦茶や」
「警察に知らせるしかないな」
 搭の中から急いで出ようとした時、一人の男の足下に何かがぶつかった。
「何や?」
 煙の中を目を凝らして見ると、目をつぶったまりちゃんが床に倒れていた。
「何やお人形さんか。ビックリさせよんなあ」
「ほっとき。どうせどっかの観光客が忘れていったんや」
「案外、このお人形さんが飛んで来て搭を壊したんかも知れんで」
「お前、どんな頭しとんにゃ! 寝言は寝て言うてんか!」
「可哀そうに、こないに汚れてもうて」
 男はまりちゃんを手に持つと、布でまりちゃんの汚れた部分を拭き始めた。
「おい! お前、何考えとるんや! 今、どういう状況か分かってんのか?!」
「そうは言うても、搭はもう元には戻らんのやで」
「緊迫感に欠けるやっちゃな!」
 男二人が問答していると突然、まりちゃんは瞳をパッチリと開いた。
「目ぇが開いた?!」
 まりちゃんは暫く辺りをキョロキョロと見ると、自分を抱いている男に尋ねた。
『おじさん。ここどこ?』
「ひい! 人形が喋った!」
 二人の男はそのまま腰を抜かしてしまった。まりちゃんを放すと震えながら後ずさりする。
『どこなの?』
 まりちゃんは二人に詰め寄る。
「ここ、ここは東寺さんや! 東寺さん!」
『東寺の事? こんな所まで飛ばされたの? やってくれたわね! 鬼芭王!』
 まりちゃんは叫ぶと同時に両手を水平に上げた。そのまま青白い光が体全体を包んでいく。
「ひい! 何やあ!」
『おじさん達、危ないからちょっと、どいててね! 火傷しちゃうよ!』
 すぐにまりちゃんは飛び上がろうとしたが、半分に折れて地面にめり込んでいる搭の先端を見つめた。まりちゃんは急いでその搭の先端の部分に移動する。
『おじさん! これ頂戴!』
 まりちゃんはそう言うと、五重の搭の一番上部にある避雷針の部分を一気にヘシ折った!
「ひえええ!」
 震える男達を後にしてまりちゃんは、その巨大な避雷針を肩に担ぐと一気に飛び上がった。ゴオオオオ! とジェット噴射のような音を立てながら一気に東寺から遠ざかっていく。
「い、今のは夢や! 夢なんや!」
 二人の男達は震えながら、その場に座り込んだままだった。
 避雷針を肩に担いでまりちゃんは急いで嵯峨野に向っていた。愛らしい口をキッと一文字に結んで虚空を睨んでいた。流れるような金髪が怒りで逆立つ。 
『皆な、無事でいて! 鬼芭王はまり子が命に替えても倒して見せる!』
 京都の街中を、寺の上を、立ち並ぶ住宅の上を、まりちゃんは一瞬で飛んでいく。たちまち数秒後にはまりちゃんの速度は音速に達していた。キイイインンンンンン! と唸りを上げながら京都の街並の上を通過していく。まりちゃんの出すスピードからは音の衝撃波が生まれ、住宅の瓦が、街中のショー・ウィンドーが、ビルのオフィスのガラスが、車のボディが一瞬の内に粉々になっていく。それでも構わずにまりちゃんは飛び続けた。
『鬼芭王、決して許さない!』
 あっと言う間にまりちゃんの視界には嵯峨野の景色が飛び込んできた! 鬼芭王の巨大な体と善界の弓から発射される鬼雷矢が見える!
『光司! 生きていたのね!』
 まりちゃんはそう叫ぶと、一気に肩に担いでいた避雷針を鬼芭王めがけて投げつけた! ドンッ! という音と共に避雷針が風を切って急降下していく! だが地上にいた鬼芭王は一瞬早く、それに気がつき、宙に飛び上がった! 巨大な避雷針が轟音を立てて地面に突き刺さる。 
「まりちゃん! やっぱり無事だったのか!」
 僕が叫ぶのと同時に後藤氏が大声で怒鳴った! 
「まり子〜〜〜〜〜〜〜っ!」
『しゅうちゃん! 無事だったのね!』
 まりちゃんは地面に着地すると鬼芭王と向いあった。
『きさま! 生きていたのか!』
『鬼芭王、これがお前の最後よ!』
『ふざけたヒトガタだ! もう一度ふっ飛ばしてやるわ!』
 ズバアアアア! という音と共に鬼芭王の両手から激しい衝撃波が飛び出す。まりちゃんは上空へ飛び上がり、弓の発生させた結界で何とか難を逃れた。
[小僧! もう一回、行くぞ!]
「よっしゃ!」
 再び弓を構えた時、心の中にまりちゃんの思念が飛び込んできた。 
『光司! 奴が飛び上がった時を狙って!』
「何だって?」
『鬼芭王は空中に飛び上がった時に、一瞬だけ隙ができるわ。そこを狙うのよ! まり子が奴を飛び上がらせるわ!』
「了解!」
 途端にまりちゃんは両手にエネルギーを集め始めた! 高温で高圧縮の球形の光が一気に膨れ上がっていく。プラズマのような光が周囲に弾けた! 
『行くわよ! 鬼芭王!』
 ゴオオオオオオ! という音を立てて、巨大な光が鬼芭王に突進していく! 
『馬鹿め! そんな弾に当たってたまるか!』
 言うが早いか鬼芭王は空高くジャンプした! 
「貰ったー!」
 ドギュウウウウウウウウ! という音と共にパワーアップした鬼雷矢が鬼芭王に向っていく! 鬼芭王は予期せぬ攻撃に慌てふためいた! 
『何だと?!』
「当たれっ!」
 ドオオオンンンン! と空気中に爆音が響き、一瞬で鬼雷矢が鬼芭王の胴体を貫いた!
『グオオオ! 馬鹿な!』
 鬼芭王はそのまま地面に墜落した。激しい地響を立てて地面の上を転がる。破裂した鬼芭王の胴体から善界の舎利が転がり落ちた! 
『しめた!』
 まりちゃんは素速く急降下して、その善界の舎利を拾うと再び空中に舞い上がった。
『ググ! その舎利を返せー!』
『欲しかったらここまで飛んで来なさい! 鬼芭王!』
『ワシを舐めるなよ!』
 鬼芭王はそう叫ぶと全身を真っ赤な光に包み、空中に飛び上がった! 物凄い勢いでまりちゃんに突っ込んでいく!
「佐伯さん! まりちゃんの援護を!」
 後藤氏がで叫んだ。だが、僕は左の腕をブラリと下げると、そのまま地面に再び倒れ込んだ。
「佐伯さん!」
「ちくしょう、腕が、腕が痛いぃぃぃ!」
 気も狂わんばかりの痛みが、左腕に襲いかかっていた。あまりの痛みに意識が遠くなる。パワーアップした弓の反動に、体が耐えられなくなっていたのだ。
「せっかくここまできたのに、ちくしょう!」
[小僧、お前の体力ではもう限界だ! せいぜい後、一発しか射てんぞ!]
 消え入りそうな意識の中で、空を見上げるとまりちゃんと鬼芭王が闘っていた。そのスピードは、もはや目には捕らえる事はできない。あまりにも早すぎるのだ。まりちゃんと鬼芭王は空中で睨み合う。
『いまいましいヒトガタめ! ワシの真の恐ろしさを知らんようだな!』
 するとまりちゃんは微かに笑って、鬼芭王を睨んだ。
『確かにあなたは、地上では強いわ。でも、空中ではどうかしら?』
『何だと?』
『善界の舎利の力で巨大化をして破壊力は増したようだけど、その分、空中での動きが鈍くなっているわ!』
 意表をつかれたのか、鬼芭王の顔色には明らかに焦りの色が浮んでいた。勿論、まりちゃんはそれを見逃さない。
『図星だったようね! 行くわよ! 鬼芭王! 今までの借りを何百倍にもして返して上げるわ!』
 そう叫ぶとまりちゃんは、右手に衝撃波のエネルギーを思いっきり膨れ上がらせた!
 左手を前に出し、右手を引くようにして構える。
『ダアッ!』
 鬼芭王の全身を包むかのような衝撃波が、一気に襲いかかってくる。鬼芭王がその衝撃波から逃れた時には、既にまりちゃんは鬼芭王の懐に入っていた!
『ゲエっ!』
『これは胡蝶の分!』
 一気に鬼芭王の腹にまりちゃんのストレートパンチが叩き込まれた! 身を折りまげて三十メートルの巨体がふっ飛んでいく! 鬼芭王が地面に墜落する寸前に、まりちゃんは瞬間移動で鬼芭王の目の前に再び現れる! 
『これが光司の分!』
 今度は落下してくる鬼芭王の懐を、まりちゃんが蹴り上げた!
『グエッ!』
 呻き声を出しながら、再び鬼芭王は空中へとふっ飛ばされる! その場でまりちゃんは再び瞬間移動して、鬼芭王の目の前に現れる!
『ひいいい!』
『そして、これが! まり子としゅうちゃん達の分!』
 クワアアアアアア! という音と共に、巨大な光が鬼芭王の左腕を吹き飛ばした!
 鬼芭王は木の葉のように翻弄されて、地面に向って落下していく。さすがのまりちゃんもパワー全開で、連続攻撃をしたためか暫くは空中で息をついていた。
「何てこった! まりちゃんが二人にも三人にも見えるぞ!」
「あれは、残像だ。瞬間移動するから次の瞬間にはそれが残像になっている」
 しかし後藤氏は顔を曇らせていた。
「まずい! まりちゃんはここで全パワーを出しきっている。エネルギーの消費が早すぎるぞ! このままじゃ…」
「まりちゃんが力尽きるか、鬼芭王が破壊されるか」
「並の化物なら今ので木端微塵ですがね。相手が鬼芭王だとそうもいかない」
 田村刑事が冷静に言う。
『クククククク!』
 気がつくと鬼芭王は地面に片手をついて、微かに笑っていた。
『このワシが、鬼芭王と呼ばれたこのワシが、あんな小さなヒトガタごときに翻弄されるとは、ますます面白くなってきたわい!』
 鬼芭王は残ったもう片方の腕を振り上げると、一気に空中に飛び上がった!
「何てこった! まだあんな力が残っていたのか!」
「正真正銘の怪物だ!」
 鬼芭王は一気にまりちゃんの方に向っていく。
『けけけけ! どうした? もう力が出ないか?』
 鬼芭王は右手を振り上げると、まりちゃんに向って衝撃波を放った!
 ズバアアアア! という音を立ててそれがまりちゃんの横をギリギリにかすめていく。
 まりちゃんの長い金髪が宙に舞った。
「待ちやがれー! 鬼芭王!」
 僕は声の限りに叫んだ! 鬼芭王は僕の方を見降ろすと不敵に笑った。
『ふん、虫ケラがまだ生きていたか!』
 全身に走る痛みに耐えながら僕は必死で立ち上がった。だが精神も肉体も、もうギリギリの状態だ。
『ケケケケ! そんなよれよれの体で射つ鬼雷矢など恐れるに足らんわ!』
「ちくしょう! せめて空を飛べたら!」
『飛べるわ』
 空を見上げていると、何処からか胡蝶の声が聞こえてきた。見ると胡蝶は近くの草むらの上にうつ伏せになっていた。
「胡蝶! 無事だったか!」
『なんとかね。でも・もう・力が・出ない』
「どうすればいいんだ? どうやったら飛べる?」
『一度だけ・チャンスはあるわ』
「どうやって?」
『あたしの・体に・つかまっていて!』
「掴まるだと? もう飛べるような状態じゃないだろ?」
『一度だけ・飛ぶことは・できるわ!』
「わ、分った!」
 そう言うと、胡蝶の体にしっかりと掴まった。上空では鬼芭王がそれを見降ろして笑っていた。
『ケッ! 裏切り者の蘭火まで生きていたか! 虫ケラが何をするつもりだ!』
『ムシケラの・意地を・見せてやる!』
 胡蝶は両手を地面に叩き伏せた!
「胡蝶?」
『鬼雷獣! 召喚!』
 ドドドドドドドドドドトド! というロケット・エンジンのような音が足下で響いた! あっという間に胡蝶と僕の体は宙に投げ出された!
『ば、馬鹿な! 鬼雷獣を地面に放ってその反動で飛び上がるとは!』
[小僧! チャンスは後一回だ!]
「うおおおおお!」
 鬼芭王のそばまで飛び上り、善界の弓を構えるのと、鬼雷矢が出現するのがほぼ同時だった! 一気に弓を引くと鬼芭王めがけて鬼雷矢を放った!
「くたばれっ!」
 ドカッ! という音が響き、鬼芭王の右足が吹き飛んだ! 続いて胡蝶が再び鬼雷獣を放って左足を吹き飛ばす! 
『ギャアアアアアア!』
 虚空に鬼芭王の悲鳴が響き渡った! 
『おお! おれの足がー! ど、何処に行ったー!』
 鬼芭王は反狂乱になって墜落していった。まりちゃんがその後を追う。
「ああっ!」
 後藤氏達の見守る中、バラバラになった鬼芭王が、そして僕と胡蝶が立て続けに落下してきた! 地面に激突しそうになった僕等をまりちゃんが受け止める。鬼芭王は地面に落下した後も必死になってもがいていた。
『ううう、くそ! ワシは死なんぞ! 絶対に! この世界を我が手中に収めるまではな!』
 鬼芭王は必死にもがきながら、残った右腕を伸ばして逃げようとする胡蝶を掴んだ!
『グウ!』
『ケケケケ! 蘭火よ! お前が裏切りさえしなけれは! 人間なんぞと心を通わしたりしなければ! ワシはこの世界を、グエッ!』
 ドスっ! という音が響いた。まりちゃんがさっきの避雷針を鬼芭王の胴体に突き刺していた。鬼芭王の胴体を貫いた避雷針が真っ赤な血の色に染る。
『ワシは、世界を…』
 そう言ったまま鬼芭王はまだ呻いていた。力尽きた鬼芭王の右手から胡蝶が逃れた。
「まりちゃん。どうするんだ?」
『しゅうちゃん。行ってきます』
 まりちゃんは残った最後の力を使おうとしていた。全身が青白い光に包まれる。
「まりちゃん! 駄目だ!」
 後藤氏が必死に叫ぶ! だがまりちゃんは首を静かに振ると後藤氏に言った。
『ここでとどめを刺さなかったら、こいつはいつ又、復活するか分らないわ。だから完全にこいつを葬ってきます』
「そんな場所があるのかい?」
 後藤氏がそう叫ぶとまりちゃんは微かに微笑んで言った。
『一箇所だけあるわ。この近くに』
「この近く? 何処なんだ?」
 まりちゃんはそれには答えず、静かに避雷針の突き刺さった鬼芭王を持ち上げて、飛び上がった。
「まりちゃーん!」
 後も振り返らず、まりちゃんはそのまま黙って急上昇していった。やがてまりちゃんも鬼芭王も、まりちゃんの飛行雲も、雲間に隠れて見えなくなった。
「まりちゃん…」
 そう呟く僕の肩に、胡蝶がそっと乗ってきた。僕は胡蝶を抱える手に少しだけ力を入れる。僕はその時はっきりと、人形である筈の胡蝶の温もりを感じた。
 こいつは、生きているんだ。確かに生きているんだ。善界の弓の思念が再び心の中に入ってきた。
[小僧、何とかやったな!]
「ああ、何とかね」
[ワシは疲れたから暫く眠りに入るぞ。またいつか妖怪が現れたら出てきてやろう。それまできさまが生きていたらの話だがな。ケケケケ!]
「またいつか、頼むよ」
[どうかな? 今度はワシはきさまの敵かも知れんぜ。ケケケケ!]
 善界の弓の思念はそのままプッツリと途絶えてしまった。もう闘う必要はないという事なのだろうか?

 地上から遥か離れた上空まで昇ったまりちゃんは、碁盤のように見える京都の市内を見降ろしていた。上空の風で激しく金髪が揺れている。既に鬼芭王の体は氷り始めていた。
『こ、ここは、何処だ?』
 鬼芭王の呻き声がまだ聞こえる。まりちゃんはじっと下界を見降ろしながら鬼芭王に言った。
『聞こえてる? 鬼芭王。まり子ね、あそこに見える京都がすごく好きなの。嵐山に比叡山、三千院に清水。いろんな所へしゅうちゃんに連れていって貰ったの』
『…』
 まりちゃんは再び鬼芭王を睨むと、大声で叫んだ!
『まり子や、しゅうちゃん達の大好きな所を壊すなんて許せない! あなたの野望もあなたと共に永遠に消し去って上げる!』
 まりちゃんはそう言うと、一気に方向を変えて急降下を始めた! 激しい大気の壁が一気に鬼芭王にぶち当たる! 
『や、やめろおおおおお!』
 鬼芭王は断末魔の声を上げたが、その叫び声も虚しく激しい風の音にかき消された。
 しばらく急降下していくと、やがてまりちゃんの視界には巨大な琵琶湖が開けてきた。
 南北に横たわる巨大な琵琶湖の中心部に、まりちゃんは向っていった。
『鬼芭王、あなたをここに永遠に葬るわ!』
 ゴオオオオ! という風の音がまりちゃんの全身を駆け抜けていく!
 ズズズウンン!
 という直下型地震のような音が、立ちつくしている佐伯達にもハッキリと聞こえた。佐伯達だけではなく、比叡山の草凛にも、橋鬼に殺されそうになった老人と孫娘にも、後藤屋の社員達にも、そして京都中の人にも、巨大な魔王の最期の音は届いた。鬼芭王とまりちゃんが突入した琵琶湖の水は何十キロも上空に跳ね上がり、長年水底に沈殿していた泥が一気に数キロ四方に飛び散った。昔、琵琶湖に沈んだ建物の破片や陶器のかけら、魚やうなぎまでもが空から降ってきた。TVのニュースでは小規模の隕石が琵琶湖に墜落したと発表していた。落下した場所が京都や大阪市内から離れていたので、不幸中の幸いだったと地元のTVキャスターはコメントしていた。もっともその影響で大量の魚が死に、京都市内の水道水がこれからかなりの長い間、供給困難になった事も同時に報じられた。僕がそのニュースを聞いたのは、病院のベッドの上でだった。
 気がつくと、いつの間にか胡蝶がそばに来ていた。
「胡蝶」
『光司、心配した。四日間も・寝たまま・だったから』
「そんなに寝ていたのか?」
 どうやらあの轟音を聞いた後、力尽きてすぐに倒れたらしい。僕は胡蝶の髪の毛を静かに撫でた。
「他の皆なは?」
 急に胡蝶の表情が曇った。悲しそうな顔をしてじっと見ている。
「何かあったのか?」
『まりちゃんが・見つからないの』
「何だって?」
『琵琶湖に・鬼芭王を・沈めてから、姿が・見つからないの。みんな・必死で・探している』
「何てこった!」
 すぐに病院を出る事にした。自分で点滴の針を腕から外し、看護婦の目を盗んで胡蝶の持ってきた服に着替えると、そのまま病院を抜け出した。
「後藤さん達は何処にいるんだ?」
『琵琶湖に・行っているわ』
 胡蝶を抱えて走り、大通りに出るとタクシーを捕まえた。
「どちらまで?」
 運転手が振り返って、行き先を尋ねる。
「琵琶湖に急いで下さい」
 運転手はバックミラー越しにに色々と話しかけてきた。
「ここんとこ異変続きやねぇ、お客さん。清水さんの怪物といい、こないだの琵琶湖やいい…。なんや琵琶湖に大きな隕石が落下したゆうて日本だけでなく、世界中からもその手の学者さんが来てはるみたいやな」
「そんなにたくさん?」
「たくさん来たはるけど、なんや『隕石が落下した時に湖底に形成される筈の独特の形状や、琵琶湖から地球外物質が見つからへんから、ひょっとしたら隕石と違うかもしれへん』って学者さんが議論してはるって話や」
「ふうん」
「そんで、琵琶湖の泥の中に溜まってた天然ガスかなんかが爆発したとか、琵琶湖のビッシーが暴れ回わったんと違うかとか、なんかよう分らんですわ」
「変な話だねぇ」
 僕は敢えて、とぼけるとそう言った。やがて巨大な琵琶湖が目の前に見えてきた。今ではその琵琶湖の水は、全体量の半分しか残ってないらしい。タクシーを降りて岸辺に立っていると、しばらくして巨大なボートが棧橋に近づいてきた。そのボートには「滋賀県警」と大きく書かれてあった。とっさに田村刑事と平田刑事の応援だな、と考える。案の定、ボートには超常現象調査会のメンバーが乗っていた。
「佐伯さん。ケガは良くなりましたか?」
 田村刑事が手招きしながらいつもの調子で言う。
「おかげ様で」
 慌てて乗り込むと、再び田村刑事は琵琶湖の中心にボートを向けた。
 水面には色々な物の破片が浮いており、衝突時の凄じさを物語っていた。ボートのへさきを見ると、後藤氏が黙ったまま立っていた。
「後藤さん」
 だが後藤氏はチラリと僕を見ると少しだけ頷き、後は何もいわず再び前方を見つめたままだった。ボートの上げる水しぶきが時々、服にかかっている。
「どうしたもんでしょうね」
 寺西教授と平田刑事、小林が腕組みをしたまま言った。
「あまり事態は好転していません。まずどこをどう探したらいいのか、皆目見当がつかないし」
「これだけ広いとどこにいるのか。沈んでいるのか、それともここではないのか」
「後藤さんは殆ど飲まず食わずでああやっているんですよ。そして時々、思い出したようにポケットからウィスキーを出して飲んでいる」
 平田刑事がうなだれて言う。
「でもその気持ち、よく分るよなあ」
 小林が背筋を伸ばして言った。
「後藤さんにとっては本当の娘も同然ですからね、まりちゃんは。でも警察にいってもどうにもならない」
「我々の力なんて小さいものなんです」
 平田刑事が再びうなだれて言う。僕は風にあたりながら、顔を横に向けた。琵琶湖の水面は超常現象調査会のメンバーの気持ちとは裏腹に、日光を受けて眩しく輝いている。寺戸がそばに来て言った。
「あたしの予知夢も役に立たないみたいなの。時々、情けなくなります」
「仕方のない事だよ」
 そういって僕が寺戸の方を振り返った時、微かに左腕が痛んだ。
「何?」
 青くなると、急いでボートの端から水面を見降ろした。
「まさか! 鬼芭王がまだ!」
 僕がそう思ったと同時に、いきなりボートのスピードが早くなった。何かに引っ張られているのか?
「田村さん!」
「分ってるよ! 操縦不能なんだ!」
「ちくしょう!」
 左腕を押さえたまま、懸命に神経を集中した。その時、ボートの後ろの方から聞き慣れた声が聞こえた。
『しゅうちゃん』
 一声、その声を聞くなり誰もがそれが懐かしい声である事に気がついた。全員が一斉にボートのへさきに立っている後藤氏を見た。
『しゅうちゃん』
 後藤氏はゆっくりと振り返った。そして手に持っていたウィスキーの瓶をゴトン! と床に落とした。ベレー帽を落とし、ドイツ連邦軍のパーカーを脱ぎ捨てて、慌てて船尾に向っていく。船尾にはまりちゃんが立っていた。綺麗な金髪がクシャクシャになり、可愛い服も薄汚れてあちこち破れてはいたが。それは確かにまりちゃんだった。
 まりちゃんは日差しの中で、ニッコリと微笑むと耳元をくすぐるような声で言った。
『まり子、無事だったんだよ!』
「まりちゃ       ん!」
 後藤氏が大洪水のような涙を流して走っていく、まりちゃんも両手を大きく広げた。
「ちょ、ちょっと後藤さん!」
 重量級の後藤氏がボートの後ろに走りよった勢いで、超常現象調査会のメンバーは、押されるようにそのまま湖の中に投げ出された! 続いて操縦していた田村刑事もヤッホー!と叫びながら飛び込んできた! 後藤氏は半分溺れながらも声にならない叫び声を上げていた。
「まりちゃん! まりちゃん! 無事で良かった!」
 まりちゃんは波間で後藤氏に抱かれながら微笑んで言う。
鬼芭王の最期 『しゅうちゃん、新しいドレス買ってね』
「買ってやる! ドレスなんか千着でも二千着でも買ってやる! 何なら三千着でもいいぞ!」
『わーい!』
 二人のやり取りを見ていると、各メンバーは何か胸に熱いものが込み上げてくるのを感じていた。だが、僕はここで重大な事態に気がついた。
「田村さん!」
「ん、何? 佐伯君!」
「ボートは? ボートはどこに行ったの?」
「えっ? ボート?」
 一同が後ろを振り返ると、すでにボートは水平線の彼方に走り去ろうとしていた。
「田村さん! 操縦していたんでしょ!」
「そうですよ。ワハハハハ!」
「あんたは何のために飛び込んだんだ!」
「何のためだろう? よく分らない。つい嬉しくて」
「一度、あんたの頭をカチ割って脳味噌を見てみたいよ! 一体何を考えているんだ!」
「きさま! お上に逆らうつもりか!」
「大体、まりちゃんがボートをイタズラで押したりするからだよ! もうちっと普通の登場の仕方ができないのか!」
『だって、映画でこんなシーンあるじゃない!』
「ちょっと! こんな所で喧嘩しないで下さい!」
 寺戸が叫ぶが各メンバーは全員、責任を押しつけあっている。
「後藤さんが皆なを突き落としたんだぜ!」
 小林が波間で叫ぶ!
「無礼者が! 君は私のこの溢れるような心情が分らんの
か! 小林君、君は死刑だ!」
「それはそうと今夜の晩御飯は何でしょう?」
 寺西教授が眼鏡を拭きながら言う。
「玉砕バスターでイモでも焼いてろ!」
 平田刑事が叫んだ!
 胡蝶はただじっと。各メンバーのやりとりを上空で見つめていた。
『この連中って・案外・バカ。でも、大好き』
 ニコっと微笑むと胡蝶は、日光に反射する水平線をじっと見つめて呟いた。
『雪ちゃん、舞華、やっと終わったよ。これで・やっと…』
 かくして僕等は別の滋賀県警の水上艇に発見されるまで、この幸せな、責任なすり合い大会を続けていた。超常現象調査会らしいと言えば、らしいが。
 そしてもう一人、僕達のやりとりをじっと見つめている人影があった。比叡山の延暦寺の草凛だった。彼は懐から大きな本を取り出すと、墨でその分厚い本に何事か書き込んでいた。
「紀元二六五三年三月、滋賀県の琵琶湖で鬼芭王、滅す」
 そう鮮やかに梵語で書き込むと草凛は懐にその和綴じの本をしまい込んだ。本の表紙には小さな字で「秘教真伝」と書かれてあった。草凛は一人ニヤリと笑うと
「私の役目は代々、受け継いできた秘教の歴史を綴る事だ。決して表の世界には現れない歴史をね。佐伯さん、あなたとはまたどこかでお会いすることがあるかも知れない」 
 そう一人呟くと、草凛は胡蝶達に気づかれる前に姿を消した。

 その日の夕方、メンバーは、再び後藤屋の座敷に集っていた。
 後藤氏が祝辞を述べる。
「え〜、諸君の活躍もあって、とうとう鬼退治を完遂する事ができました。オデッサ号は駄目になったけど、皆さんのケガが軽微で何よりです。田村刑事、平田刑事、寺西君に小林君に寺戸さん。そして、強力なバックアップをしてくれたまりちゃんに胡蝶ちゃんに佐伯君、本当に有難う。では、皆さんのために、そして我々のために身代わりになってくれたオデッサ号に乾杯!」
「乾杯!」
 全員が乾杯した後、誰からともなく拍手が始った。色んな意味がこもった拍手であった。後藤氏は谷山教授の事を考えているに違いない。僕は後藤氏の方に向って言った。 「後藤さん、こんな時に非常識な事を言いますが僕はまだ不安が残っているんですよ。鬼芭王は本当に死んだのでしょうか?」
「そうですね、それは私も考えていましたが、しかし、我々は命がけで、できるだけの事はしたんです。これ以上、考えたところで我々にはどうしようもありませんよ。もっとも文化財の五重の搭や、清水の舞台や渡月橋を壊したのはまずかったなと思っていますが」
「そうですね」
 酒に弱い僕には珍しく手元のビールを一気に飲み干した。そして、その晩はまたまた狂乱の宴会となった。田村刑事と僕はまたまた鍋つつき競争を始めていた。
『まりちゃん、この・連中・歳を・とっても、このままかしら』
『まり子、一生直らないと思う』

 翌日、僕は京都を立つ事にした。後藤氏が良かったらこのまま後藤屋で働かないかと言ってくれたが、丁重に断った。京都は僕にとって確かに憧れの土地だが、忘れかけた頃に思い出して来るのが良いのだ。
「しかし、今度は凄じい京都旅行だったな。まさかこんな経験をするとは」
「いい土産話ができたじゃないですか?」
 田村刑事がニタッと笑う。
「誰に話すんです? こんな土産話」
 たった半月程、居ただけなのに妙に名残惜しい。京都駅まで超常現象調査会のメンバーが見送りに来てくれていた。
「ところで、後藤さん達はどうするんです?」
「一応、ここでの活動は終わったので、私は横浜の本部に帰ります。平田君と田村君は東京へ、小林君は埼玉ですね」
「田村さん達もですか?」
「ああ、今度から本庁勤務になったんだ! これで口うるさい課長からも開放されるってもんだ!」
 田村刑事が顔中に笑みを浮かべて言う。
「私は当分、胃が痛いです」
 平田刑事が言うと全員がドッ! と笑った。
「そして私は九州、寺戸さんが山口です」
 寺西教授が言う。
「皆な京都に見切りをつけた訳ですか。じゃあ、またバラバラですね」
「佐伯さんはどうするんですか?」  寺戸が聞く。
「どうするかは、これからゆっくりと旅をしながら考えてみます。むしろこれからが本当の旅のような気がする。ここでの事は一生、忘れませんよ」
「きままな一人旅か…」
 平田刑事が言うと後藤氏が微笑んだ。 
「佐伯さんはもう一人じゃありませんよ」
 すると胡蝶が、僕のバッグの中から顔を覗かせた。まりちゃんに手を振っている。
『またね、まりちゃん』
『うん、またね。きっとまたね!』
『きっと、きっと、またね!』
 やがてプラット・ホームには新幹線が滑り込んできた。僕は荷物を持つと全員に手を振った。
「じゃあ、いつかまた」
「ああ! きっとまたな!」
 田村刑事が大きく手を振って言う。
 僕は全員がクスッと笑う中で、新幹線の中に乗り込んだ。これから何処に行くのか、どう生活するのか、それは僕自身にも分らない。ただ今までと違う事は善界の弓と胡蝶がいる事だ。胡蝶を膝に抱くと、窓ガラスからホームの方を見つめた。まだメンバー達は手を振ってくれている。
「ありがとう、皆な」
 やがて発車のベルが鳴り響き、新幹線は静かにプラット・ホームを離れていった。完全にホームが見えなくなると、元のように座席に座り直し、大きく深呼吸した。胡蝶を膝に抱いたまま静かに呟く。
「胡蝶」
『ン?』
「どこへ行こうか?」
『どこでも・いいよ』
「それもそうだな」
 そう言うと僕はいつの間にか寝息を立てていた。胡蝶が窓の外をふと見ると、古都の景色がどんどん遠ざかっていく。
『さようなら・雪ちゃん…』
 胡蝶もそう呟くと、そのまま寝息を立て始めた。二人の上におだやかな春の日差しが降りそそいでいた。

第一部 完
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