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1.飛火野
「少しは眠れたかい?」
僕が目を覚ましたのを見て隣に座っていた田村刑事が話しかけてきた。

 僕は佐伯光司。前作『古都の鬼』で、まりちゃん達の冒険を知っている方ならお馴染みのこの物語の狂言廻し役だ。

 田村刑事から焼けるように熱いコーヒーを受け取り、少しづつ冷ましながら飲む。揺れる列車の中で紙コップになみなみと注がれたコーヒーをこぼさないようにするのはひと苦労だ。長旅を続けてきたせいか体がだるかった。ボンヤリとした意識の中で、あれこれと思考を巡らしてみる。しかし、まだ頭の中は霞がかかったようだ。
 田村刑事が言った。
「佐伯さん、悪かったね。急に奈良に連れて来たりして」
「いえ、後藤さんの依頼とあれば仕方ありません。それにどうせ気ままな二人旅だったし」
「胡蝶ちゃんも確か低血圧だったね」
「僕と一緒で寝起きは最悪です」
「まあ佐伯さん、そうしかめっ面しないで。その代わりにいい話がありますよ」
「いい話? 奈良に行く事となにか関係があるんですか?」
「実はですね。今回、奈良に行くのは後藤さんが言い出した事じゃないんです」
「えっ、違うの?」
「ある組織から正式の依頼が来た訳なんです。それも事件の調査依頼ですよ」
「知らなかった!」
「相手は大きな組織でね。ちゃんとした成果が上がれば、それなりの報酬も出るんです。勿論、滞在費や経費なんかも向う持ちです」
「凄いや。よほどの組織なんですね。まさかカルト教団なんかじゃないでしょうね」
「はは、まさか」
 田村刑事は悪戯っぽく笑う。
「さて、もう少し時間があるから、ボチボチ依頼内容を話そうか。実はもう後藤さんが詳しい事を調べているんだ」
「はい」
 今回の超常現象調査会への依頼、それは驚くべき内容だった。調査内容の一つ一つが、まるでどこかのオカルト雑誌の事件みたいだったのだ。
「今回の事件は、大きく分けて四つに分類されるんだ」
 田村刑事はコーヒーを飲みながら、片手の指を四本立てた。
「まず一つ目、これは奈良全域での事なんだけど」
「はい」
「ときおり夜中に不気味な呻き声が聞こえるそうだ」
「それは鳥じゃないんですか? 夜中に飛ぶ鳥もたくさんいるでしょ? ゴイサギとか」
「どうもその手の鳴き声とは違うようなんだ。専門家が言うのだから間違いないだろう」
「そうですか…」
「そして二つ目は、飛火野ってご存知?」
「知ってます。奈良公園の辺りでしょ?」
「そう、そこに放し飼いになっている鹿の事だけど、ここ二〜三カ月で頭数が激減しているらしい」
「妙な病気でも流行っているとか?」
「それがね。減っていく理由が全く分らないそうなんだ」
「でも子鹿が毎年、生まれてくるんでしょ?」
「年に二百頭はね。でも、その内の何割かは、通常でも交通事故や怪我で死んでしまう」
「事故が増えたって事ですかね?」
「いや、それを計算に入れても数が合わないそうだ。で、調べて見ると奇妙な事に」
「何です?」
「奈良のいろんな場所でたくさん鹿の骨が見つかったんだ。寺の境内、池の中、果ては全然関係のないビルの屋上とか。おそらく消えた鹿の骨だろう」
「何でそんなところに? 鹿肉の密猟団とか、大規模な組織的犯行ですかね?」
「それも考えたけどね、それではいろんなところに骨をばらまく行為自体、つじつまが合わないでしょ? しかもその骨は綺麗に肉が取られていたってさ。おまけに人骨まで混ざっていたそうだ」
「奇怪な事件ですねぇ」
「そして三つ目」
 田村刑事はゆっくりと、指を折った。
「奈良市内のいたるところで、頻繁に車のエンジンが止ったり、テレビやラジオが使えなくなったりするらしい」
「何かの電波妨害じゃないんですか?」
「ひどい場合には時計の針が逆に進むというし、あと、電子レンジが爆発したりするらしい。つまり文明の利器が全部パーになるらしいよ」
「エイリアンの侵略じゃないでしょうね」
 まるで昔のSF映画みたいだ…。
「で、四つ目は何ですか?」
「四つ目は、興福寺の中なんだ」
「興福寺?」
「東大寺の近くにある寺ですよ。これは三つ目の事件にも関連してるけど、興福寺の境内に国宝館という建物があってね。最近そこでも奇怪な事が起こっているんだ」
「どんな? 骨でも出てくるんですか?」
「それが、夜中にいきなり警報装置が鳴りだしたり、防犯カメラに得体の知れない影が映っていたりするそうだ。五重の搭の上に人影を見たなんて言う人もいるんだよ」
 僕はすぐ京都の事件を連想した。
「まさか、また鬼?」
「どうだろうね。何か異変が起きると必ず、見てもいないのに尾ヒレを付けたがる輩が多いからね。とにかく重要文化財に何かあったら大変って事で警備の強化を計ったんだ。しかしあいかわらず同じ事が起きているらしい。周辺の寺でも自分ところに飛び火するんじゃないかって心配してるらしいよ」
「じゃあ、今回の事件はみな…」
「そう。警察の方でも皆目、訳が分らない」
 確かに、これじゃ奈良県警でもなす術がないだろうなあ。
「それにしても、よくその依頼人は僕たちの事を知ってましたね。何ていう組織なんですか?」
「う〜ん。その事は後藤さんが現地に着いてから教えると言ったからね。ごめんなさい」
「相変わらず秘密主義だなあ。後藤さんは」
 僕は苦笑したが、妙に懐かしかった。

 そうこうしている間に、列車は近鉄奈良駅に着いた。窓越しに寺でも見えないかと思ったが、ビルばかりでそれらしいものは何も見えない。
 改札を抜け、東大寺へと続く道、登大路を歩く。奈良は古の都とはいえ、ここも京都と同じくバスやらタクシーやら、ひっきりなしで、けっこうな都会だ。
「まずは興福寺の下見でもしますか?」
「えっ? でも拝観時間はとっくに過ぎてるんでしょ?」
 僕がそう言うと、田村刑事は、にやりとして、一枚のプラスチック製のカードを取りだした。
 「今回の事件のために特別なIDカードを作って貰ったんです。一応、主な役所、お寺、神社には連絡がいっているようです。これでどこでもフリーパスですよ。これが佐伯さん用のです。替えがないのでなくさないで下さいね」
 そう言って田村刑事はそのIDカードを僕に渡した。キャッシュカードを思わせるそのカードの表には、桜の代紋が金色に輝き、裏には僕の顔写真が印刷してあって、関係諸機関に便宜を図るよう要請文があり、国家公安委員会発行と刻まれていた。
「と、その前に食事にしようか?」
 田村刑事がそう言ったとたん、お腹が鳴った。
「この先に美味しい店があるんだ。そこに行こう」
 ゆっくりと興福寺の前を通り過ぎる。前方には大きな猿沢の池があり、噴水の音が闇の中から聞こえてきた。左手の方を見ると、南北に渡ってなだらかな山が見えた。
「田村さん、あの山は?」
「ああ、若草山だよ。標高三百四十二メートル、見かけよりも急勾配な山だけどね。登ったら眺めは最高ですよ。一月十五日にやる山焼きも綺麗なんだ」
「え、火をつけちゃうの?」
「新芽の栄養になるように枯れ草を焼くんだよ。火を付けてから三十分後には山が全部、火に包まれるよ」
 田村刑事はタバコを持った指先を山の方に向けて言った。
「へえ」
 池を過ぎた後、白壁の土蔵や格子戸の家が続く通りに入った。
「この辺り一帯は昔、元興寺という寺の境内だったそうだ」
「随分と広かったんですね。それに古い建物も多いし」
「ええ。この辺は戦災を免れたところばかりだから古い建物が残っているんだ。事件が片付いて暇ができたら、皆でうろつくのもいいね。美味しいみたらし団子の店なんかもあるよ」
「それにしても、間口がせまい家が多いですね」
「その分、奥行きが深いんだよ。うなぎの寝床、なんて言う人もいる」
 田村刑事はタバコの先端を赤くしながら淡々と喋り続けた。一体、一日に何本吸っているのだろうか?
 もう一度、若草山の方を見ると月が登っていた。さっきの奇妙な事件の話を聞いたためだろうか? 妙に辺りを照す月の光が気味悪く思えた。何かの本で読んだのだが、欧米では月の光は人の心や性格を狂わすというらしい。そう考えると、今見えている月の光も何かしら狂気をはらんでいるような気がした。何事も起こらなければいいが…。
「ここですよ」
 見ると目の前には古ぼけた料理屋があった。そのまま通り過ぎてしまいそうな小さな店だ。入口はほとんど普通の民家と変わらない。
「おいでやす」
 中に入ると、かぼそい声が迎えた。薄暗い店の奥にいるのは一人の上品な老女だった。ここの女将らしい。その皺に覆われた細い目が、懐かしそうに田村刑事を眺めていた。
「女将さん、元気してた?」
 女将は暫く黙っていたが、やがてポツリポツリと口を開けた。
「なんや夜中に変な鳴き声がしたり、急にテレビが映らへんようになる…」
「まあ見ててよ女将さん。そのうち何とかするからさ。あの、何か食べたいんだけど」
 田村刑事はこの店の古くからの常連なのだろうか? 女将の方は勝手に料理を始めているようだった。出てきた料理は、何とダイコンとブリのあら焚きだった。うまそうな匂いが漂ってきた。
「食べてごらん」
 言われるままに食べてみた。
「うまい!」
「な? うまいだろ? この女将さんの料理は昔から変わらないんだ」
 老婆は口をへの字に曲げながらも、黙々と料理を続けていた。続いて日本酒が出てきた。
「そうか。佐伯さんは飲めないもんなぁ」
 田村刑事は残念そうな顔をすると自分のコップに酒をつぎ、ゆっくりと飲み始めた。
「あの、今は勤務時間外なんですか?」
「まあ、そう気にしなさんな。細かい事を気にしていると大物になれないぞ! はははは」
 田村刑事は豪快に笑った後、何枚かの写真を僕に見せた。
「なんです?」
「今回の依頼内容の一つ、興福寺の警備だけど、それの資料写真だよ」
 見ると、どの写真も重要文化財や国宝に指定されている仏像や、恐ろしげな顔をした神像が写っていた。
「これを警備するのですか?」
「まあね。ここには阿修羅像で有名な国宝の天竜八部衆像や弥勒菩薩像、十二神将の像とかがある」
 その中でも阿修羅の像は印象的だ。一つの体に顔が三つもあり、腕は六本もある。三面六臂というらしい。その顔は眉間の辺りに微かに苦悩が感じられるが、すがすがしい少年か少女のような顔をしていた。
「この像、珍しいですね」
「ああ。誰が何を考えてこんなもの作ったんだろうね」
 次々と出される料理を味わいながら、何気なく店内の様子を見ると、薄汚れた壁には昔の古い写真や絵がかけられてあった。なぜか古いというだけで特別な意味を持った物に見えてくるのは不思議な気がする。田村刑事と女将はろくに会話もしない。だが特に喋らなくても心が通い合っているかのようだ。そんな事を考えていると、突然、電気がフッと消えてしまった。
「あれ?」
「どうしたんですか?」
 蛍光灯の音も、冷蔵庫の低いモーター音も消えてしまい、店内はいよいよ静まり返ってしまった。音のない真っ暗闇だ。例の怪現象だろうか。女将がどこからか懐中電灯を取り出し、店の奥でゴソゴソとやっている。蝋燭でも探しているのだろう。
 不意に嫌な予感に襲われ、全身に鳥肌が立った。
 やがてどこからか、その場にそぐわない機械音が聞こえてきた。携帯電話の呼び出し音だった。
「そうら、おいでなすった」
 小さく舌打ちすると、田村刑事はコートのポケットから携帯を取り出した。
「もしもし、田村です。えっ? 興福寺で? 参ったな、どんな事件ですか? あ…おい、どうした? 何も聞こえないよ」
 電話回線も異常をきたしたのだろうか? 田村刑事が、『お〜〜〜い!』と叫んだが、その声は虚しく、闇の中に吸い込まれただけだった。
「ああくそっ、こっちも駄目になっちゃった!」
 携帯電話をポケットに戻すと、田村刑事はいきなり立ち上がった。
「佐伯さん、行くよ。女将さん、ご馳走さん。また来るわ!」
「おおきに、お気張りやす…」
 激励の言葉をうしろに聞きながらお代を置いて店の外に出た。そして今来た道をそのまま北上し、さっき通り過ぎた興福寺へと向った。
 停電しているのは、どうやらこの辺り全部らしい。さっきまで見えていた街の灯が完全に消えていた。真っ暗になった街並を歩くのは実に妙な感じだ。そこには月だけが、相変わらず青白い光を地上に投げかけていた。昔の人は皆、こんな夜道を歩いたのだろうか。
「たまには、あんな店もいいだろ?」
田村刑事が月を見上げながら言った。
「そうですね。女将さんは昔からの知り合いなんですか?」
「僕がまだ駆け出しだった頃にね。よく給料日前で金がなくて困った時にも、めし喰わして貰ったんだ。あの頃が懐かしいよ。張り込みの時なんか、おにぎりとか、よく作ってもらったなぁ」
「無口だけどいい人なんですね」

 なぜか興福寺の方が異様に光って見える。月光の反射じゃない。途端に田村刑事の表情が変わった。
「田村さん!」
「ああ、急ぐぞ!」
 既に境内には大勢の警官が待機していた。マスコミの関係者やヤジ馬もそこら辺にたむろしている。警官達は、田村刑事を見つけると素速く寄ってきた。警官の吐く息が白い。
「何かあったの?」
「はい、どういう訳なのか…」
「何だい?」
「寺の中に入れないのです」
「はー?」
 田村刑事は釈然としない面持ちで境内の奥に向かおうとした。その時…
 バシッ!
 目の前で鞭を打ち鳴らしたような音が響いた。見ると田村刑事は地べたにペタンと座り込み、頬から血を滲ませていた。誰が攻撃したんだ?
「どうなってんの? 」
『光司!』
 胡蝶がバッグのジッパーを開けて、その小さな顔を覗かせた。
『この寺の中に・巨大な・結界が、張られているわ』 「何だって?」 『ここまで・強力な・結界は・見たことがない。相当に・力を持ったヤツが・いるわ』
「くそっ!」
 試しに、そばに落ちていた小枝を拾い、境内の奥の方向に投げた。再び激しい音と共に小枝は飛び散った。侵入するのはかなり困難なようだ。
「胡蝶、どうしたらいい?」
『あたしが・結界を・破ってみるわ。おそらく・あたし達が・入っていったら・困るヤツが・中にいるのよ』
「そうだろうな」
 胡蝶はバッグの中から飛び出すと、僕の頭の上に乗りしばらく沈黙を続けた。
 やがて小さな市松人形は五重の搭の方を向いた。
『あの辺に・結界の・中心が見えるわ。行くわよ!』
 そう言うと胡蝶は両手を水平に上げ、青い光に包まれた。続いて電子楽器のような音が辺りに響いた。
 胡蝶を包む光が一気に強くなったかと思うと、胡蝶は瞬時に搭の近くまで移動していた。
 五十メートルはある搭の、下から上へと螺旋を描いてゆっくりと飛ぶ。何かを探しているようだ。やがて一番、最上段に差しかかると、不意に胡蝶の動きが止った。
「胡蝶、見つかったか?」
 思念を搭の方向に送る。サイキックドールとは、ある程度の距離なら離れたままでも会話をする事ができるのだ。折り返し胡蝶の思念が頭に届いた。
『あったわ。でもなんだか・奇妙なものが・屋根に・刺さっているの』
「それ、抜けるか?」
『やってみる』
 胡蝶の思念が届いた時、左手の方から警官達の怒鳴る声が聞こえた。
「た、田村刑事! 大変です!」
「どうした!?」
「国宝館が燃えているみたいです!」
「何!?」
 国宝館からは、おびたたしい煙が吹き出し、夜空に舞い上がっていた。慌ててかけつけようとした警官達が次々強力な結界に弾かれた。
「おい、まだ早いって! 結界を壊してからだ!」
「ケッカイって何でありますか?」
 痛む体のあちこちを押えながら警官達が呻いた。
「胡蝶、まだか!」
『待って・もうすぐ!』
 胡蝶が結界に手を触れた刹那、突然、搭がパッ! っと花火を散らしたかのように輝いた。
「な、何だ?」
 一瞬の出来事だった。興福寺の境内は真昼のように照され、あまりの眩しさに思わず目を覆った。
 驚いてもう一度見ると、光り輝いていた搭は今度は真っ赤に燃え上がり始めた。今の光は火災の光だったのか? めらめらと生き物のように大量の炎が搭を包んでいく。搭が燃え出した途端、いままで目の前を塞いでいた結界が消えてしまったようだ。数人の警官や、僧達が慌てて消化器を持って走ったが、とても間に合いそうにもなかった。僕は田村刑事と急いで国宝館に駆けつけた。
「くそっ! 何でいきなり火が付くんだよ!」
「佐伯さん、入るぞ!」
「了解!」
 そう言って国宝館の入口に手をかけた途端、信じられない事が起こった!
 ドオオンン! 大砲の一斉射撃のような音が響いた。誰かが拳銃を発砲したのかと思ったが、館の屋根が吹き飛ぶ音だった。空中には大量の瓦や木材の破片が飛散し、その中から何本もの閃光が夜空を照した。
「何が始ったんだよ!」
 崩れかけた建物の中に駆込んだ僕等は、一瞬、立ちすくんだ。
「こ、これは!」
 信じられない光景だった。館の中は爆発のために、もうもうと煙が立ち込め、怪しい光が建物の中をさまよい、並んだ神像達の姿を不気味に照し出していた。光の中心に巨大な光球が浮かんでいた。その光球には何本もの手がついていて、ゆらゆらと動めいていた。一本一本の手は、それぞれが自分の意志を持っているかのように動いていた。
「あ、あれは…」
「阿修羅像?」
 なぜ、阿修羅像が動いているのか? しかもその大きさは田村刑事から聞いたサイズよりもはるかに大きくなっている。美少女のように見える筈の、顔の部分も怒りに満ちた噴怒の表情へと変わっており、両側にあるもう二つの顔も同様だった。光球の中でその異様な阿修羅像は僕たちの姿を認めると、耳元まで裂けたような口を開き、呪い殺すような恐ろしげな声を発した。
『何者だ?』
 突然、阿修羅像が人間の言葉でしゃべったのでみな驚いた。
「た、田村さん、ど、どうしよう」
「僕に聞くなよ!」
『もう一度問う、何者だ?』
「ぼ、僕は佐伯光司だ!」
 阿修羅の前に進み出るとヤケクソになって叫んだ。不意に阿修羅の顔が歪んだ。
『佐伯光司、我等の行く手を阻む者…』
 三つの口から同じタイミングで言葉が洩れた。
「阻む者? どういう事だ!」
『邪魔者は消し去るのみ…』
 激しい劫火が目の前に迫ってきた。もうどうしようもない。目を閉じて最後の瞬間を待った。このまま理由も分らず殺されてしまうのか?
 バシッ!
 何かが弾ける音がした。再び目を開けて見ると、周囲には強力な球形のバリヤーが張られ、阿修羅の劫火を弾き返していた。まりちゃんだった!
「まりちゃん!」
『光司、遅くなってごめんね!』
 まりちゃんは軽くウィンクすると、両手をかかげたまま阿修羅の方を振り向いた。
『な、何者だ、我が劫火を跳ね返すとは!』
『阿修羅さん、お返しするわよ!』
 まりちゃんの全身が光り輝くと、一気に球形のバリヤーが膨張していき、サイキックエネルギーが爆発した!
 ズバアア!
 巨大なエネルギーに弾かれた阿修羅は、そのまま国宝館の壁をつき破り、瓦礫の山に埋もれてしまったかのように見えた。だが、すぐにそれらを吹き飛ばし、宙に舞い上がった。
 空中で身を翻した阿修羅は、そのまま、まりちゃんに襲いかかった。六本の手から次々と破壊光線が飛び出し、その閃光が幾重にも重なって闇を貫き、玉砂利をしきつめた境内の至るところに大穴が空いた。
 だが、まりちゃんは軽いフットワークで、その攻撃をいとも簡単にかわすと、宙返りをしながら、瞬時に阿修羅の頭上に移動していた。
『上がガラ空きよ!』
『何!!』
 バキッ!
 互いに攻撃を放った時、異様な音が宙を走った、続いて阿修羅の絶叫が闇夜に響き渡った!
『ギャアア!』
 その叫び声と共に、一本の腕が目の前に落下してきた。阿修羅の腕だった。六本あるうちの一本が、まりちゃんのキックで落とされたのだ。その腕は地面に落ちた後、暫くもがき苦しむように痙攣していたが、やがて動かなくなった。
『おのれ、覚えておれ!』
 阿修羅は五本になった腕を空に伸ばした。そのとたん、頭上の暗雲がそれに反応したかのようにみるみるうちに集り、真上に静止した。
 噴怒の顔をいっそう歪めた阿修羅は、暗雲の真ん中に空いた大きな穴の中に吸い込まれて行く。
『お待ちなさい、逃がさないわよ』
 まりちゃんが阿修羅を追いかけようとしたせつな、天空から激しい突風が襲いかかった。
 まるで台風の直撃でもくらったかのように、たちまち周囲の建物の屋根や壁が引きはがされていく。凄じい嵐に、とても立っていられる状態ではなかった。阿修羅にはこんな力まであるのか?
『吹き飛ぶがいい!』
 失速したまりちゃんは、きりもみ状態になって落下してきた。
「まりちゃん!」
『ククク、愚かなヒトガタよ、また会おうぞ!』
 さすがに、無敵のサイキックドールまりちゃんの力をもってしても、これ以上阿修羅を追いかける事は無理だった。不気味な笑い声を残して、阿修羅は暗雲の中心に大きく開いた穴の中へと吸い込まれていき、後には生暖かい不快な空気が残された。
 それはあっという間の出来事だった…。
再び何事もなかったかのように、いつもの暗闇と静けさが戻ってきた。

「消えてしまった…」
飛火野 「ああ、消えた」
 僕たちは虚空を仰いで茫然と立ちすくむ他になかった。まるで悪夢のようだ。
 我に返って地上に目を戻すと、確かに国宝館は目茶苦茶に破壊され、右手にある五重の搭も燃え落ちて、あちこちが崩れかかっている。
 ドン!
 何かを吹き飛ばす音が搭から響き、木片が次々と落下していく。見ると胡蝶が搭の中から出てきた。急いで思念を送った。
「胡蝶、大丈夫か?」
『大丈夫。結界を壊したとたんに・別の結界が・発生して・閉じ込められていたの。でも・あの塔の中には・何かがあったわ』
「何か? 一体、何があったんだ?」
『分からない。奇妙な・空間が・開けていた』
「何だそりゃ? とにかく無事で良かったよ」
 我に返ると、全身に火傷の痛みが走った。やはりこれは夢ではないのだ。
「まりちゃんは、どうなったんだ?」
『大丈夫よ、光司』
 心に響いた声に驚いて振り返ると、いつの間に戻ったのか、まりちゃんが頭上高く浮かんでいた。どうやらそんなに遠くには飛ばされなかったようだ。
「無事だったのか!」
『あれくらい、平気』
 まりちゃんは暫く阿修羅の消えた空を見つめていたが、やがてゆっくりと目の前に降りてきた。両手を後ろにやり、ちょと首をかしげて、まりちゃんは言った。
『久しぶりね、光司。ちょっと遅れちゃった』
「いつも危機一髪の時に登場してくれるね、君は」
『カッコイイでしょ? クスッ』
 まりちゃんは悪戯っぽく笑うと、飛んできた胡蝶と手を取り合って再会を喜びあった。
 僕と田村刑事は支え合いながら何とか起き上がる事ができた。だが、僕等は二人三脚で数歩歩んではでき損ないのゼンマイ人形のようにガシャンと地面に転がった。
「いたたた、もっとゆっくり歩けよ!」
「しょうがないでしょ、僕だって痛いんだから!」
 暫くすると、さっきの爆発で逃げ出した警官達が、おそるおそる戻ってきた。
 今更遅いんだよなあ…。
 寺の境内を出ると、後藤氏が黙って立っていた。
「後藤さん…懐かしいなぁ」
 軽く会釈すると、後藤氏は手を上げてニッコリと微笑み、何も言わずこちらに背を向けて歩き出した。どうやら集合場所があるらしい。
 焼け野原となった興福寺から出た後、謎の停電によって麻痺状態となっていた街も、あちこちで電気が点きはじめた。いっせいに息を吹き返す街並みに僕は安堵のため息をもらした。

 後藤氏の後に続いて、興福寺の隣にある和風建築の春日ホテルにチェックインした。田村刑事の話によると、この辺りでも屈指の高級ホテルだとか。
 今回の事件解決まではいくら泊っていても良いそうだ。こんな凄いホテルに泊り放題とは。一体、依頼主はどんな組織なのだろうか? 相当な資産を持っているに違いない。田村刑事にこっそり宿泊料を聞くと、思わず青くなってしまった。
 自分の部屋で冷水のシヤワーを浴びる。飛び上がる程に体中のあちこちが痛んだ。さっきの火傷のせいにちがいない。暫く休んだ後、後藤氏の部屋に直行する。ノックして中に入ると、中は和室仕様だった。後藤氏は座椅子に座ってどこかに電話をかけているところだった。相変わらずテキパキとした無駄のない喋り方だ。
 やがて電話を終えると、後藤氏は僕の方を向いた。
「お久しぶりです、佐伯さん。ところで傷の具合はどうですか?」
 後藤氏はいつもの調子でニコニコと微笑みながら言った。傍らには大量の火傷用の軟膏があるのが見えた。どうやら気を効かして買っておいてくれたらしい。
 それにしても…いつ会ってもこの人は元気そうだ。相変わらず相手に有無を言わせぬ無言の迫力のようなものを感じた。
「何とか大丈夫ですが、ただ傷がけっこう痛みます」
「それは大変だ。火傷の軟膏を買ってきたから塗った方がいいですよ」
 平然と、超常現象調査会のリーダーは言った。
「しかし、初日から大変でしたね。私も今日はこちらで商談があったものですからね。予定より早く終わったので、まりちゃんと興福寺に行ったんですよ。そうしたらあの有様だ。まさか阿修羅さんが動き出すとはビックリ仰天ですなぁ」
 後藤氏は目を大きく見開いた。
『光司、顔は火傷しなかったの?』
 まりちゃんが後藤氏の肩に乗っかって言う。
「阿修羅の劫火に襲われた途端に、顔だけはガードして飛んだからね。目がやられたら致命傷だし。ただ他のとこが…あいた!」
「ヒリヒリしてたまりません」
 田村刑事も珍しく顔を歪めていた。軽度の火傷だったとはいえ、体を動かす度にあちこちが痛んだ。今後もこういった目に遭うのだろうか? しょっぱなから弱気になってしまった。そんな僕を見透かして田村刑事はニヤニヤしながら言った。
「佐伯さん、今回はちゃんと報酬があるんですよ。まだまだこれからですわ、男ならドンと行こう!」
 やっぱり逃げられないのか…。トホホホ

「田村さん、興福寺の警備は…」
「残念ながら大失敗です。警備どころか建物が壊れ、阿修羅が宙に浮いて飛んで行ってしまいましたなんて言ったら、依頼者は卒倒するだろうなあ」
「さて…」
 後藤氏はやっと笑うのに飽きてきたのか、真面目な顔になって本題に入った。この人の表情は猫の目のようにクルクル変わるからキャラクターが掴めない。
「例の阿修羅の手はどうしましたか?」
「ここにあります」
 田村刑事が石のように堅くなった阿修羅の腕をテーブルの上に置いた。さっきこの腕が僕たちを襲ったのだ。動かなくなったとはいえ、まだ飛びかかってきそうな気がした。大きく開かれた手の指先が宙を掴むような形に湾曲している。
「大きな腕ですね。僕の腕の何倍だろう」
「佐伯さんと僕が見た阿修羅はゆうに二メートル以上はありましたよね」
「どうして大きくなっていたんだろう?」
「何かの力で巨大化したという事かもね」
「後藤さん、この腕をどうするんですか?」
「今日はもう遅いのでこのまま保管しましょう。待てよ、ホテルのロビーに、このまま預けましょうか?」
 後藤氏は悪戯っぽく笑って言った。
「やめて下さい、フロントの人が腰抜かします!」
「はは、冗談ですよ。明日、とあるところに持って行きます」
「とある場所?」
「そうです。面白いところですよ〜」
 再び後藤氏は薄笑いを浮かべ、何かを予感させる目つきをした。どうやらまたまた、何か悪企みがあるらしい。
「ところでお二人さん、食事はすみましたか?」
「はい、さっき田村さんの行きつけの店で食べて来ました」
「ははあ。田村君、例の女将がいるところですか?」
「そうです、佐伯さんにもと思って」
「それは良い事です。近頃はああいった店が減って残念だ。国宝や重要文化財だけでなく、ああいった人達も守らねばなりません。まさに無形文化財だからね」
 いかにも二人の言いそうな事である。
「後藤さん、それはそうと」
「何でしょう?」
「他の超常現象調査会のメンバーはどうしたんですか? 小林さんとか、寺戸さんとか」
 後藤氏はそれを聞くと大きく頷いた。
「そうそう、実は重大発表があります」
「重大発表?」
「そう、本当はまだ内諸にしとこうと思っていたのですが、むふふふふふ」
 後藤氏は、さもおかしくてたまらないといった表情で笑っている。
「何だか気味悪いなあ」
「我々の新兵器がもう少しで完成しそうなんです」
「新兵器! もう新しいのを作ったんですか?」
 後藤氏は目をつぶったまま、手を左右に振った。
「いえ、その新兵器の製造を始めたのは、かなり前からです。前のオデッサ号よりも先に始めています」
「オデッサ号よりも?」
「そうです。なんせオデッサ号を上回る高性能ですからね」
「まさかメカゴジラじゃないでしょうね?」
「そんなに大げさな物ではありません。でも、作れるものならメカゴジラもいいですなぁ」
 後藤氏は顔を上げてハッハッハッと笑った。
「じゃあ、他のメンバーは…」
「お察しの通り、作業にかかってもらっています。実は佐伯さんが半年前に京都を出た時から、連中にも手伝って貰ってるんですよ」
「半年前から? 何か凄い兵器のようですね。いつ披露して下さるんですか?」
「できたらすぐと言いたいところですが、後、最後の調整が必要なんです。でも、もしもの時に備えて完成を急いで貰っています」
「はあ」
 後藤氏がムフフと笑うと、続いて田村刑事もフフフフ…と不気味な笑いを洩らした。どうやら二人ともグルのようだ。また最後に自分を驚かすつもりらしい。秘密めかした笑いに嫌な予感がした。
 それにしても、皆な元気にしているだろうか?京都で一緒に数奇な冒険をした、暖簾刀の小林さん、トランプ超能力テストの寺戸さん、田村刑事の部下の平田さん、マッドサイエンティストの寺西教授。一体、連中はどんな新兵器を作っているのだろうか?
 まあ後藤氏のいう通り、そのうち分る事なのだろう。見てのお楽しみというところだろうか。
「では、今日はゆっくり休んで下さい。明日の集合は朝八時、下のロビーに集って下さい」
「了解です」
『また明日ね!』
 まりちゃんが手を振って見送ってくれた。
 後藤氏の部屋を出て、そのまま自分の部屋へと戻る。体中が痛い上にもうフラフラだった。ベットの上にドスンと音を立てて仰向けになった。
 幾多の疑問が、何度も胸中を去来していた。 阿修羅像はどこに飛び去ったのか? なぜ命を得、動くことができるようになったのか? それに奴は僕の名前も知っていた。もしかしたら、善界と関係があるのだろうか? 半年前に、京都の琵琶湖に葬った鬼芭王の仲間なのか? しかし、阿修羅と鬼芭王にどんな関係があるというのだ。はたして善界の弓で奴に勝てるだろうか?
 部屋の空気が静かになればなるほど、様々な考えが頭に浮かんでは消えた。とはいえ、疲れのために段々と意識がうすれてきた。
 胡蝶がそっと電気を消した後、僕はすぐに深い眠りに落ちた。
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