あたり一面、桜の花が咲いている。どの方向を見ても桜しか見えない。
暖かな風にのって桜の花びらが静かに目の前に落ちてくる。しばらく、僕はその花びらをじっと見ていた。永遠に続くかのような音のない世界だ。
「なぜ桜が咲いているんだ? 今は秋なのに」
ふとそう思った。しかし桜は、そう思えば思う程、鮮やかに、その色香を増し続けた。桜に酔ったのだろうか? 呼吸が圧迫されるような気がした。けれども花びらは、なおも周囲を埋めつくしていく。
ふっ・・・と、頬をくすぐるような優しい風が吹いた。それに呼応するかのように、花びらが周囲をクルクルッと舞った。
「ここは、どこなんだ?」
とてもこの世の景色とは思えなかった。もしかしたら、僕は死んでしまったのだろうか? 空を見上げると、さっきまで見えていた筈の青空も桜に覆いつくされてしまっていた。桜はどんどん、その密度を増してゆく。まるで周囲を桜の壁で囲まれてしまったみたいだ。
「くすくすっ」
どこかで女性の笑う声が聞こえた。
今度はすぐそばの桜の「壁」の一部が風に剥がされて散った。そのぽっかりと空に穴の空いたところに、声の主は浮かんでいた。
彼女は僕より年上にも思え、また次の瞬間には年下にも思われた。微笑んでいるが、少し悲しそうにも見えた。
きれいだ・・・。宙に浮かんでいる姿はまるで天女だ。そう思った時、その人がわずかに頷いたような気がした。
天女は桜の花びらとともにフワリと舞い降りてきた。肩くらいまである黒い髪が静かに風に揺れていた。ほっそりとした肢体の上に不思議な異国風の白い着物を着ており、さらにその上に薄紫色の羽衣のような物を羽織っていた。
彼女が近づいてくるにつれ、優しい風が体に感じられた。
瞳の色は陽光の反射のためか・・・周囲に舞う桜の花びらに反応するかのように黒から茶、そして金色へと変わった。
白くほっそりとした手が伸び、わずかに僕の頬に触れた。柔らかな感触・・・。顔を見つめると、彼女の表情は妙にせつなげになった。
「きみは誰?」
「あなたに危険が迫っています。でも安心して。私がいつでもあなたを見守っていますから」
僕は突然の言葉に驚いた。
「危険って、どんな危険なんだ?」
「ごめんなさい。それは言えない。あなたは善界の血を引く者、これはあなたに課せられた試練なのです」
天女は優しい表情になり、そっと離れて行こうとした。
「待ってくれ、君の名前は何ていうんだ?」
だが、それには天女は答えなかった。ただ黙って僕の顔を見つめ返し、少しずつ後ずさりしていった。
ゴウッ!
静かに散っていた桜の花びらが突然、激しく舞い始めた。天女はその中に舞上がり、木々の梢の間を花びらのように流れていった。
やがて、徐々に天女の姿も、周囲を取り囲む桜の世界も、真っ白な光に包まれて消え去っていった。微かな甘い余韻を残しながら・・・。
「待ってくれ!」
そう叫んで、自分の声に目が覚めた。どうやら夢だったらしい・・・。
見上げても桜の花園はなく、ただ格子造りの天井と蛍光灯が見えるだけだった。
「なぜ、あんな夢を見たんだろう?」
ベットの上でじっとしたまま、今見た夢を反芻しようとした。けれども、その記憶も既に霞がかっていて、夢の桜のように失われていた。できたらもうしばらく、記憶の中に残っていて欲しかった。少し損をしたような気分になった。
そんな自分に苦笑しながら、ふと時計を見ると、既に八時半を回っていた。
「しまったあ!」
慌てて飛び起きると、まだ寝ている胡蝶を起こし、自分の部屋を飛び出した。
ロビーに行って見ると、既に後藤氏達が待っていた。
「す、すびばせん、遅れました!」
「佐伯さん」
「はい?」
「その格好でレストランに行くつもりですか?」
「えっ?」
よくよく自分の姿を見ると、まだ寝間着のままだった。まりちゃんと、胡蝶がそれを見てケタケタと笑い出した。慌てて僕は自分の部屋へ引き返した。
それから一時間後・・・。
朝食の後、後藤氏はまりちゃんの口許をナプキンで拭ってやりながら、一人言のように言った。
「今日はですね、ある重要な場所に行きたいと思います。が、その前に興福寺の中をもう一度検証しようと思っています」
「何か発見されたのですか?」
「いえ、そうではないですが。何かあればと思いましてね。警察やマスコミ関係の動きも多いし、田村君の指示によって行動しましょう」
「一応、鑑識は終わっています。もっとも、あれだけ破壊されてしまったらもう手のつけようもなかったでしょうが」
ホテルを出て、すぐに興福寺の境内に入る。泊る場所が隣だから実に便利だ。寺の周辺は、大勢の警官やマスコミ関係者、ヤジ馬で一杯だった。
奈良県警の警官達が現場の周囲にロープを張り、猫の子一匹通すまいと厳しい目つきで立っていた。
大勢のヤジ馬の視線はもっぱら、ひどく破壊された国宝館に向けられていた。だが、異様なのは、燃えつきてなおくすぶり続けている五重の搭だ。完全に炭化しているようだが、所々から黒い煙が、ため息でもついているかのように吹き出していた。
普段静かな奈良では、これだけの大事件はめったにないだろう。報道陣のレンズが何本も破壊された建物に向かって林立している。僕は前の京都の事件を思い出して暗い気持ちになった。
田村刑事を先頭に、人込みをかきわけて中に入る。すぐさま数人の警官が近づいてきたが、田村刑事が手を上げて遮ると、持ち場に戻っていった。
境内の中をざっと検分してみたものの、破壊された箇所以外は何も変わった様子はないように見えた。
「鑑識では何か分りましたか?」
「いえ、分ったのは見た通りの事と、国宝阿修羅像が消え去ったという事だけです。なるべく秘密にしときたかったのですがね。早速、新聞に書き立てられて大変ですよ」
「ええっ? もう新聞に載ってるの?」
田村刑事がさし出した新聞を広げて見ると、大きな見出しで『国宝阿修羅像消える!』と書かれてあった。さらに別のスポーツ紙を見ると『怪事件! 興福寺の阿修羅像が行方不明』と出ていた。一晩明けたら、奈良のみならず、日本中が騒然となっていた。
「いやあ、TVのニュースやワイドショーでどんどん報道されてるし、気の早い旅行会社がこれに便乗して『謎の阿修羅像ツアー』なんて計画していると、噂に聞きました」
「しかし、呆れたもんだなあ・・・。そこまで商魂たくましいとは」
後藤氏が笑いながら言った。
「さぞかしその阿修羅ツアーは参加者が多いでしょうね。本屋でももうコーナーができていて、そっち関係の本がたくさん並んでるんじゃないですか? 『阿修羅の謎』とか」
「ごもっともです」
田村刑事は苦笑しながら、タバコの煙を吐いた。
「さて、ではそろそろ出ましょうか。何も新しい発見はなかったし」
「了解」
次の行き先は興福寺からずっと南の、帯解というところらしい。本来なら鉄道を利用するぐらいの距離なのだが、後藤氏はタクシーマニアなので、わざわざタクシーを使う。
タクシーは居並ぶお寺や民家の前を通り抜け、だんだん山の方に向かってゆく。後藤氏のいう「面白いところ」というのは何なのか? また秘密基地か何かか?
もしかすると、前の京都の時のように、ボタンを押したら動き出す壁や、長年かけて作り上げたスーパーマシンなどが登場するのかも知れない。
前の座席でやたらと運転手に話しかける田村刑事や、隣の席で時々、何事かまりちゃんに囁く後藤氏の様子を見ながらそんな事を考えた。
だが、そんな考えはあっさりと裏切られた。タクシーは大通りから少し脇道にそれたところでいきなり停車した。車から降りて周囲を眺めると、そこは大きな神社の前だった。
「随分と長く急な石段ですねぇ」
「ここを登りますよ。ちときついですが」
まりちゃんと胡蝶は空に浮かんで飛んでゆく事ができるが、僕たち人間はそうもいかない。息を切らして登るしかない。フーフーいって足を休めると後ろから胡蝶が背中を押す。
『光司・だらしがないわよ・こんな階段ぐらいで』
やっと登りつめると、神社の境内の入口には一対の真っ白い巨大な狛犬が並んで鎮座しているのが見えた。神社を邪悪な存在から護っているかのようだ。
「狛犬って、こんなに大きかったっけ・・・?」
そう思いながら横を通り過ぎて行くと、不意に前方の視界がグニャリと歪んだ。
「な、何だ?」
瞬時に辺りが静寂に包まれる。急に今まで聞こえていた木々のざわめきや、鳥の声が途絶えてた。
慌てて周囲を見渡したが、全てが真っ白な霧に包まれている。ヒンヤリとした空気が体に伝わってきて震えが走った。いつの間にかたくさんの鳥居が現れ、僕の周囲を取り囲んでいた。一体、何が起こったのか? 田村刑事や、後からゼイゼイついてきていたはずの後藤氏の姿も見えないし、まるで一人だけ迷宮に置き去りにされたみたいだ。
「皆などこに行ったんだ?」
「グルルル!」
霧の中から突然、猛獣のような唸り声が響いた。それも二方向から同時に。その声は段々と霧の中から近づいてくる。
「何がいるんだ!?」
やがて霧の中に巨大な影が二つ輝いているのが見えた。僕は思わず身構えた。
「グルルルル!」
再び咆哮が轟いた。霧の中から現れたのは何と二頭の巨大な獅子だった。
「馬鹿な!」
二頭の獅子は三メートル近くはあるだろうか? 立ち上がったら軽く僕の身長の倍を越える事は確かだった。こんなでかいのに襲われたらひとたまりもない。
二頭のうち、一頭は体が真紅の色に輝いていた。黄金色の立て髪を静かに揺らし、そこから光の粒子を発散している。それは濃い霧の中でも見事に輝いていた。巨大な四つ足と、先端に並んだ鋭い爪、容易に獲物を引き裂く牙、吊り上がった双の目。そこには不気味なことに瞳はなく、黄金色に輝いていた。口元からも頭部からも黄金色の毛が伸びており、見る者をうっとりさせる程の優美さだ。
もう片方の獅子に目をやると、そっちは紅い方とは対象的に、その全身がメタルブルーの色に輝いていた。
念のため左手を宙にかざした。いざという時は善界の弓を使うしかない。だが、この獅子たちには妖怪特有の、邪悪な妖気や憎悪の念などは全く感じられなかった。それどころか、二頭からは聖なる気を感じた。聖域に足を踏み入れた時に感じる、神々しい、心の中が澄みきっていくようなあの感じだ。
不思議な獅子達だった。そもそも、初めに妖気が感じられたら、既に善界の弓が反応しているはずだった。
敵意はないらしい。二頭の獅子は、むしろ僕を試しているように見えた。
「グルルル!」
再び二頭の獅子が唸り声を上げた。そしてゆっくり目の前までやって来た。だが、獅子達は僕と視線を合せる事もなく、別に威嚇しているようでもなかった。
ふと目の前にそびえ立つ鳥居の柱を見ると、一枚の神札が貼ってあった。
手を伸ばしてその神札を取った。
フッという音と共に、一気に辺りの霧が遠退いた。たちまち周囲を取り囲んでいた鳥居もバタバタ倒れ、地中に吸い込まれていった。
この空間は幻術によって産み出されたものだったのだ。
それが完全に消えてしまうと、パチパチパチと拍手の音が響いた。
「いやあ、さすが佐伯さん。見事に幻術を見抜きましたね!」
後藤氏たちがニコニコしながら近寄ってきた。やっぱり、そうだったのか。
「どうしてこんな悪戯を?」
「それはですね。あちらの巫女さんが、是非とも貴方の力を見たいと言いだしましてね。それで申し訳なかったけど、試させて戴いた訳です」
後藤氏の傍らには一人の巫女と、彼女とは違う色の袴をはいている一人の青年が、周囲に何の気配も感じさせる事なく静かに立っていた。彼らは視線が合うとにっこり会釈した。
「紹介いたします。男性の方が林田さん、そしてこちらが妹さんの玲子さんです。お二人は兄妹で神社に奉仕しておられます」
「初めまして。佐伯さん。力を試したりして大変、失礼いたしました。御無礼をお許し下さい」
二人は口を揃えて言い、また頭を下げた。
「あっ、いえ」
思わず僕もつられて深々と頭を下げてしまった。
「実は佐伯さん、今回はこのお二人の所属する組織が、超常現象調査会に一連の事件の調査依頼をしたのです」
「えっ? 依頼者はこの方たちの組織だったんですか?」
「その通りです。それで依頼者としては、ぜひ、あなたの力を見たいと仰いましてね」
「そうだったのか・・・」
「林田さん、どうですか? 彼の反応ぶりは」
「少し時間がかかりましたが、落ち着いて周囲を観察されたのには驚きました。普通の人なら悲鳴を上げるところです。八十七点ですね」
眼鏡をかけている青年の目が微笑していた。
僕たちは社務所の応接室に案内された。驚いた事に、玲子が二頭の獅子に何事か命令すると、あっという間にその二頭はただの御影石でできた狛犬に戻ってしまった。
「あっ、あの獅子達は狛犬だったのか!」
「ま、そういう事です」
どうやらただの神社ではないらしい。後藤氏の言うとおり、確かに面白いところだ。
「それにしても立派な神社ですね」
「いえ、大したものではございません」
林田は謙遜して応えた。
全員が腰を降ろすと、玲子がお茶を運んできた。言葉使いや身のこなし、全てが行き届いていて隙がなく、こっちまで気が引き締まるような感じだ。
「今日は、わざわざおいで頂き、有難うございました」
林田が言うと、後藤氏は手をいやいやと左右に振った。
「とんでもない。我々はそちらに調査依頼を受けたのだから、当然の事です。それに今日は、私の方からお願いもあって来たのですから」
改めて前に並んで座っている二人を見ると、兄の方は真面目そうな黒縁の眼鏡をかけており、顔は細面だった。眼鏡の奥には常に親切そうな微笑をたたえており、好感を持った。後藤氏もお気に入りの様子である。
玲子の方は、大きな両目が多少、吊り目できつい感じだが、なだらかに線を描いた眉がその感じを弱めていた。すっと通った鼻筋と、しっかりと横一文字に結んだ口元が気品を感じさせた。林田の妹とは思えないほどの美人である。そして腰の辺りまで伸びた黒髪は、肩の辺りですっきりと纏められており、日光に眩しいばかりに輝いていた。
二人とも内面的な深さを隠しているようだが、それは注意深く見れば、容易に感じ取る事ができた。いかにも神々の元に仕えるのに相応しい若者たちだ。
林田は手元にあった小さなケースを取り出すと、中から名刺を取り出した。そっと差し出されたその名刺を見ると、
『火川神社権宮司 宗教法人火川神社崇敬会 理事長代行 林田尚修』
と書かれていた。
「火川神社崇敬会・・・」
後藤氏が振り向いて言った。
「宗教法人火川神社崇敬会は、全国に分社のある火川神社の宗道団体です。彼は火川神社の権宮司、つまり副頭取である他に、崇敬会のお仕事も兼任しています。ここは彼等の奈良支部という訳なんですよ。当然、私も一枚かんでおりますがね」
確かに、これは後藤氏とつながりがあっても不思議はない。
「後藤さんは、このお二人と以前から知り合いだったのですか?」
「そうです。火川神社崇敬会は我が超常現象調査会と兄弟のようなものです。今後も色々とお世話になると思うので宜しくお願いしますよ、佐伯さん」
「宜しくお願いいたします」
二人が丁寧に頭を下げた。
「あのう、さっきの二頭の獅子は何なのですか?」
「はい、あれは火川神社に代々伝わる狛犬です。狛犬の中でも特に強い力を持っており、何か事が起こった場合は、ああして獅子に変身します。我々は赤い方を炎獅子、青い方を電獅子と呼んでいます」
玲子が言った。
「二頭とも佐伯さんの事を気に入ったようです」
「あの二頭が?」
「あの獅子たちは真の善悪を見分ける能力を有しています。同時に相手がどれぐらいの力量を持っているか見分ける事も」
「僕はてっきり喰われるかと思いましたよ」
「それは御安心下さい。佐伯さんが何者か分った以上、今後は味方となって動くと思います」
「そ、そうですか。それは心強いな」
後藤氏はバッグの中から幾つかのファイルを取り出すと、林田に手渡した。
「一応、現段階までの調査報告です。後日、また新しいのを持ってきます」
「ありがとうございます」
林田はそのファイルを丁重に受け取った。
「あの、佐伯さんは私達の依頼内容はご存知でしょうか?」
「一応、列車の中で事件の概要は説明してあります。国家公安委員会のフリーパスIDカードも渡してあります」
田村刑事が補足した。
暫くお茶を飲んだりして談笑した後、玲子がおもむろにきりだした。
「後藤さん、今日の御用件を仰って下さい」
「そうですね。早速お話ししましょう」
後藤氏はそう言うと、昨日の阿修羅の腕を林田の前に差し出した。途端に二人の顔色が変わった。
「これは・・・?」
「例の興福寺の阿修羅像の腕です。佐伯さんも田村君も火炎放射で黒コゲにされるところだったのですよ」
「私たちも今朝、TVを見て驚いていたところです。大規模な停電があったとも聞きました。とうとう恐れていた事が起こった訳ですね。で、奴は今はどこに?」
「それが宙を飛び、雲に紛れて消えてしまいました」
「かなりの力を持っているようですね。こうしていても未だ妖気を感じます」
「そうでしょうな。で、お願いというのはですね。この阿修羅がどこに行ったかなんですよ。依頼人に頼むというのも変な話ですがね」
「かしこまりました。では玲子に占いをさせましょう」
「失礼します」
玲子は立ち上がり、阿修羅の腕を抱えると、そのまま応接室を出て行った。
「占いをする場合、特別に用意された部屋を用いる事にいたしております」
神職である林田が説明する。
一瞬、その光景を見てみたいと思いつつも、昨日からなかなか言い出せなかった素朴な質問をしてみる。
「後藤さん、阿修羅っていうのは何なんですか?」
「阿修羅っていうのは古代インドの神の一族なんですよね。確かに仏教では仏法を守護する神とされていますが、バラモン教では常に戦いを好む悪神としても有名です。だから邪教の神として、あのように異様な格好で表現されているそうですよ。帝釈天との闘いなんか有名ですね」
「闘争の邪神。そう言えば頭が三つあったけど、全部バラバラに喋っていたよなあ」
思い出すだに気味が悪かった。
「又、現れる可能性はありますかね?」
「多分に考えられます。まだまだデーターが足りないのが残念です」
「そう言えば五重の搭もあっという間に燃え尽きたよな」
『たぶん・興福寺の・五重の塔は・阿修羅の結界の・拠点だったのよ。あたしがそれを・壊したから・力の均衡が・おかしくなって・燃えだしたんだと・思うわ』
「五重の搭は、巨大な結界を張るのに適しているという訳か。でも阿修羅は寺の中で一体、何をしていたんだ?」
「グオオオ!」
突然、社務所の外で獅子達の咆哮が聞こえた。一同が立ち上がった。
「侵入者か!!」
窓を開けて見ると、二頭の獅子はなぜかこちらに向かって盛んに唸っている。
林田の顔がさっと緊張した。何かを感じ取ったらしい。
「いかん、玲子のところだ!」
僕らは長い廊下を走り、林田の後に続いた。玲子は、神楽殿にいるはずである。
奥の部屋に行くと、果たして玲子は床に突っ伏しており、首の部分を押さえて顔を真っ青にしていた。見ると石のようになって動かないはずの阿修羅の手が、玲子の首を絞め上げていた。
「馬鹿な!、腕が生き返ったのか!」
「早く何とかするんだ、玲子さんが窒息してしまう!」
「玲子!」
「まりこが助ける!」
飛びかかろうとする林田を制止し、まりちゃんは、玲子の喉元に喰らいついている阿修羅の手を払い除けようとした。しかし既にその手はガッチリと固まっていた。
「まりちゃん!」
「折るわよ!」
まりちゃんの手刀が唸り、阿修羅の手が叩き落とされた。真っ二つに折れた腕は暫く、床の上をのたうち回っていたが、やがてすぐに動かなくなってしまった。緊張の後に周囲を押し潰すような沈黙が流れ、冷や汗が頬を流れた。
「まだ生きていたなんて、なんて腕だ」
「なぜだ? 昨日、ホテルにいた時には動かなかったのに」
「玲子、しっかりしろ!」
林田は妹を抱きかかえた。玲子は真っ青になったまま、全身を小さく痙攣させながらも小声で呟いた。
「お兄様、あの手は危険よ・・・」
「危険?」
「あれから占いを始めて、何とか阿修羅の魂と接触はできた。でも、阿修羅は少しずつどこかに移動しているわ」
「移動?」
「阿修羅は何か目には見えない邪悪な力を手にしたみたい。しかもその力が段々と強くなってる」
「邪悪な力? 一体、何だ!」
「分からないわ。何とかその力を払い退けようとしたんだけど、その途端、あの手が動き始めたのよ…」
そう言うと、玲子は何かが弾けたようにそのまま気絶してしまい、林田の腕の中でグッタリ動かなくなった。
「何てこった・・・」
林田の身体が小刻みに震えている。いつも微笑を絶やさなかった表情が、怒りのために今は別人のように変わっている。どうやら阿修羅は自分の腕を遠隔操作したらしい。背筋に冷たいものが走った。
「林田さん、救急車を呼びましょうか?」
「いえ、近くに医者がいるので大丈夫です」
林田はそう言うと、控えていた巫女に医者を呼ぶように申し付けた。
「私も、うかつでした」
後藤氏が言うと、林田は首を横に振った。表情は硬いままである。そして額の汗を拭いながら何かを決心したように言った。
「こんな事になったのも、人任せにしようとした私の責任です。後藤さん、微力ながら私も調査に加えていただけませんか?」
「それはかまいませんが、神社の実務はいいのですか?」
「構いません。ここは親族が宮司をやっておりますので、差し支えないと思います。ですから是非、私と玲子とをメンバーに加えて戴きたいと思います」
「分りました。それは心強い限りです」
後藤氏もいつに無く緊張していた。
「お医者さまがお越しになられました」
先程の巫女が、障子越しに声を掛けた。
「お連れして下さい」
林田が彼女に申し付け、後の事は医者と巫女に任せる事にした。
医者の診断によると、玲子は命に別状はないとの事だった。重苦しい空気を感じながらタクシーに乗り込んだ。
「玲子さん、大丈夫でしょうか?」
「とりあえずは大丈夫でしょう。実は武術でも私よりも強いんですよ」
林田は安心したのか、いつもの表情に戻っている。
「そうだ、お礼を云うのを忘れてました。まりこさん、どうも有難うございます」
『玲子さん、早く良くなるといいね』
まりちゃんが少し首をかしげて、なぐさめるように言う。それに林田は無言で頷いた。
「阿修羅は一体、どこにいるのでしょうか?」
「分りませんね、しかしこれで興福寺で起こった事件の事が少しは分りました。寺に結界を張ったり、防犯装置を撹乱させていたのは、あの阿修羅でしょう」
「阿修羅は確か、末世を破壊するなんて言っていました」
「なるほど、やつならそれに適任でしょうね。見るからに好戦的ですしね」
「それにしても、火川神社崇敬会っていうのは、相当に大きな組織なんですね」
「ちゃんとした宗教法人で、宗道組織としては相当なものでしょう。崇敬者の熱烈なエナジーを統合する程ですからね。他にも色々な施設や研究機関を持っています。私も彼等のお父さまには、時々、会っていますよ。物静かな温厚な感じの方です。実をいうと、そのお父様が実質的な依頼主なんです」
「なるほど、そういう繋がりがあったのか・・・」
タクシーで春日ホテルへと帰り、後藤氏の部屋に再び集った。後藤氏も田村刑事も少なからず顔が青ざめていた。ここで、いきなり我々は行き詰ってしまったのだ。
「後藤さん、これからどうしましょうか?」
「そうですね。今から飛火野へ向かいましょう」
「奈良公園ですか?」
「そうです。阿修羅の件は奴が動き出さないと何もできません。そこで別の依頼内容の一つ、鹿の骨の問題を調べましょう。それに、できたら謎の停電の件もやりたいですな」
「興福寺はどうしましょうか?」
「田村君の部下が目を皿のようにして色々と調べているようです。もっともあれだけ破壊された後だから、もう何も出てこないかもしれませんがね」
方針が決るとさっそく外に出た。どうも部屋の中でじっとしているのは、性にあわない我々だった。
奈良公園に行って見ると、平日のだだっぴろい敷地の中にはいつものように何頭もの鹿の姿が見えた。今、こうして見ている公園は平和そのものだ。とても怪事件の頻発する場所とは思えなかった。
まりちゃんと胡蝶は鹿センベイを買い、おずおずと近づいてくる鹿達にそれを与えていた。あやまって、まりちゃんの手にまで噛みつく鹿がいた。
「いたた・・・。こんな可愛い動物を襲うなんて、まりちゃん許せない」
「全くだね。何のために鹿を襲うんだろ?」
胡蝶が鹿センベイを僕の目の前に差し出した。
『光司も・食べる?』
「僕は鹿じゃない!」
取り敢えず犠牲になった鹿の骨を調べようという事になり、奈良公園の中を調査して回った。確かにいたるところに骨が散乱している。初めて見た鹿の頭部の骨は割に小さく片手でも持てるくらいだった。どれも見事なまでに白骨化しており、いくら他の部分が何かに喰われた形跡があるとはいえ、その骨は綺麗すぎた。
「どうしてこんなに綺麗なんでしょう?」
「うーん、骨以外の器官は全て溶かされている感じですね」
「だったら丸呑みとか?」
「鹿を丸呑みですか、もしそうなら相当に大きな怪物だ」
「まさか鹿が共食いなんて事はないでしょうねぇ」
「肉食獣ならまだしも、それは考えられません」
こんな妙ちくりんな問答が夕方まで続き、気がつくと辺りは夕闇に包まれようとしていた。途端に寒気が全身を覆ってゆく。
「後藤さん、そろそろ引き上げませんか?」
「そうですね。これだけ調べても新しい発見は何もないですからねぇ」
さすがに不死身の後藤氏も少々、疲れてきたようだ。
立ち上がって背を伸ばした時、とつぜん遠くの方からドドドド・・・と地鳴りが響いてきた。全員に緊張が走る。
「な、何の音?」
「地震ですかね?」
「違う、あれは鹿の足音だ!」
田村刑事が叫んだ時、何十頭もの鹿が一斉にこちらに向かって走ってくるのが見えた。一体、何が起こったんだ!?
「わああ、こっちに来るな!」
いくら普段はおとなしい鹿でも、あんなに大群で来られたらどうしようもない。中には巨大な角を持った牡鹿もいるのだ!
「総員退避!」
後藤氏が叫んだが、人間の足が鹿より早いはずもなく、あっという間にその大群の中に巻き込まれた。どうする? できたら攻撃はしたくない。地面を転がりながら善界の弓を召喚する準備を取った。
『光司・攻撃してはダメよ。この鹿達の・目を見て!』
胡蝶の思念が頭に響いた。
「目だって?」
胡蝶のいう通りだった。狂ったように突っ込んで来る鹿達の目は恐怖に怯えている。彼らは口から泡を吹き、今にも卒倒してしまいそうだった。何が起こったんだ?
だが原因はすぐに分った。鹿達に押し潰されそうになった時、不意に足下に黒い影が走った。地面に二つの巨大な影が流れていたのだ。
「まさか・・・」
空を見上げて唖然とした。地上に影を落としていたのは二羽の巨大な怪鳥だった。
僕は最近見た怪獣映画を思い出した。
「グワアアア!」
怪鳥の咆哮が飛火野に響き渡った。羽根を広げた大きさは、ゆうに十五メートルはあるだろうか? 巨大な爪と鋭くとがった口バシが、轟音とともに頭のすぐ上をかすめ飛んだ。
「な、なんだ、あいつは!」
『光司・気をつけて!』
鹿たちは、恐慌をきたし、地響きを立てていっそう暴れ始めた。本能的に生命の危険を感じているのだ。
「ちくしょう、頼むからどいてくれ!」
鹿の背中に飛び上がり、大きくジャンプする。カッコ悪く転がりながら、何とか群れから脱出する事ができた。あの二羽の怪鳥が犯人なのか?
「佐伯さん、上!」
僕を狙って目の前に迫ってきた怪鳥は、全身は真っ黒なカラスのような色をしており、羽は鳥類特有の柔らかみのある羽とは違い、不自然に先端がとがっていた。足の爪は異様に大きく、それが胴体の半分近くをしめているように思われた。鹿でも人でも獲物を鷲掴みにするのもたやすいだろう。僕はとっさに身を伏せた。ゴーッと黒い影が身をかすめた。
信じられなかったのは鳥の目だった。驚くべき事に、巨大なひとつ目が頭の中央についているのだ。しかもその目は真っ赤に輝いていた。
さらに、その首はフラミンゴのように異様に細かった。頭や胴体の大きさと比べ、全くバランスが取れていない。こんな奇怪な鳥は見た事がない。
再び怪鳥が急降下してくる。僕は咄嗟に木の陰に隠れた。長い羽根がまともに木にぶつかると、木の葉が辺りに飛び散り、バキバキと枝が折れる音が響いた。二度も獲物を取り逃がした怪鳥は怒りの叫びを上げて再び空に舞い上がった。
『あれは・鬼烏』
胡蝶が呟いた。
「きがらす? 何だそれは」
『人間や・動物を喰らう・下等な妖怪よ。でもあれは・日本では絶滅したはず。しかもあんなに・大きくはなかったわ』
「日本にもいたのか?」
『それもかなり・昔の話よ』
鬼烏達は飛火野全体に響き渡る雄叫びを上げると、巨大な翼をはばたかせ、長い首を不気味にめぐらしながら夕闇の飛火野を飛び去って行った。
「なぜだ? どうして攻撃して来ない?」
「本気の攻撃ではなかったようですね」
まりちゃんを抱いた後藤氏が呟いた。
「本気じゃない?」
「単なる挨拶代わりって事さ」
田村刑事が大型拳銃をホルスターに戻しながら言った。
「そろそろ敵も本性を見せ始めたという事でしょうね。あの鳥が首魁という訳はないでしょうが」
「でもここの鹿達の事は・・・」
「あれくらい大きかったら、奴が鹿達を喰らっても不思議はないでしょう。胡蝶のいうとおり、日本で絶滅しているなら、あの鬼烏達は外国から来たという事でしょうか」
「誰かに連れて来られたんだよ。何かの力で巨大化したんだと思う」
しかし、あれだけ巨大な鬼烏が襲ってきたら、鹿達もさぞ恐ろしかった事だろう。あいつが犯人なら奈良中に響き渡ったという奇怪な鳴き声や、いたる場所で見つかった鹿の骨の事も説明できる。
いよいよ敵は乗り出して来たらしい。下手に阿修羅の行方を探った事が引き金になったようだ。それは同時に、玲子の霊感が常人の域を越えているという事でもある。ともあれ本当の闘いはこれからなのだ。
空を見上げると、すっかり暗くなった空に若草山から月が登ってくるのが見えた。 |
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