辺りを静寂が包んでいる。自然に自分の鼓動が早くなっている事に気がついた。いま待機している境内の外には鏡池と呼ばれる大きな池があり、時々、水面に何かが跳ねる音がしている。魚でもいるのだろうか?
ゆっくりと大仏殿の方を見た。江戸時代に再建されたという、高さ五十一メートルの巨大な木造建築は、青い月光の中にどっしりとそびえ立っていた。
東大寺を見張る事は今朝、急に決まった事だ。阿修羅の手に襲われて気を失っていた玲子は意識が戻るや、今度は外部の干渉がないように結界を張って、再び占いを行なった。その時、玲子の意識の中に東大寺が現れたというのだ。この事はすぐに後藤氏に報告され、僕達は早速、東大寺に急行した。こんな真夜中に境内の中に入ることができたのもれたのは、田村刑事に貰ったフリーパスのおかげだ。玲子の霊感が正しければ、おそらくここにも何かがあるのだ。
鬼烏を使って色んな怪奇事件を起こしたりしたのも、もともと超常現象調査会を奈良へおびきよせるために仕組まれた罠だと、後藤氏は大胆な仮説を唱えた。もしそれが本当だとしたら、既に敵は我々の事を知っている事になる。相手は一体、何者なのか?
頭の中で色々と考えていると突然、手元にある小型無線機のイヤフォンから、後藤氏の声が聞こえてきた。
「後藤から各局、メリットチェックを行なう。私とまりちゃんは異常なし。送れ。」
続いて林田兄妹の声が聞こえた。
「こちら林田、異常なしです」
「玲子です、異常なし」
僕は、慌てて送信のスイッチを押した。
「え、えと、こちら佐伯と胡蝶、異常なしです」
次は田村刑事の番だ。だが、幾ら待っても田村刑事の声は聞こえなかった。
「後藤から田村君。応答せよ。送れ!」
後藤氏の緊張した声が聞こえた。
「トイレにでも行ったんですかね?」
「そんな筈はないでしょう。だったらその旨連絡がある筈です」
周到な田村刑事にしては確かに変だ。暫く待ったが、いっこうに田村刑事の声は聞こえてこなかった。
胡蝶がそばに来て囁いた。
『光司・さっきの音・聞こえなかった?』
「えっ? 何も聞こえないぞ」
『南大門の方で・なにか変な・音がしたの。田村さん・大丈夫かしら?』
「分った、お前はここにいてくれ。ちょっと行ってくるよ」
まさか、もう敵が現れたのか?
「後藤さん、佐伯です。今から南大門の方へ行きます…あれ?」
どういう訳か、突然、交信ができなくなっていた。幾らスイッチを押しても何の反応もない。
「ちっ、例の電波妨害かな? 胡蝶、行ってくるよ」
心配する胡蝶をその場を残し、なるべく音を立てないように南大門の方に向かう。境内の中門を抜け、そのまま石畳の上を直進すると、高さ二十五メートルの南大門が見えてきた。遠くから目をこらして見たが、田村刑事の姿はない。彼に限って勝手に持ち場を離れる筈もなかった。
「どこに行ったんだ?」
門に近づいた時、暗がりの中に誰かが倒れているのが目に入った。田村刑事だった。
「田村さん!」
急いでかけ寄り田村刑事を助け起こす。見ると首筋の部分が異常に腫れ上がっていた。苦痛に体を震わせながら田村刑事は叫んだ。
「さ、佐伯君!」
「何です? 何があったんですか!」
「逃げるんだ!」
その声が聞こえたと同時に、背後で何かが軋む音がした。殺気を感じて振り返ると、突然、巨大な鉄の棒が頭部に打ち下ろされた!
「うわああ!」
鉄棒が打ち下ろされる瞬間、田村刑事を抱えて飛んだ。ドカッと石畳の砕ける音が響き、かけらが周囲に飛び散った!
「な、何だ。あれは!」
目の前の光景を見て言葉を失った。その鉄棒が内部から南大門を破壊し始めたのだ。そして、あらかた門の周囲が削り取られてしまうと、土煙の中に二人の巨人が姿を現した。
巨人が足を一歩踏み出すと、ズーン! という地響が轟いた。なんとその巨人達は東大寺の南大門を守っている筈の、阿形像と吽形像だった。
木彫のはずの神像の体は、今や生気に満ち満ちていた。全身が輝くばかりの強烈な光を放ち、肩にかけている羽衣も木製ではなく、絹のように力強く風になびいていた。そしてその顔は阿修羅の時と同様、怒りの炎をたぎらせ、破壊神のように見えた。阿形の像は真っ赤に輝き、逆に吽形の像の方は黒く光っていた。
阿形と吽形が金剛棒を振り回し、門から飛び出した途端、瓦屋根が激しい音を立てて崩れ落ちた。もうもうと立ちこめる砂煙に視界がさえぎられた。
なんという破壊力だろうか。
阿形像と吽形像はそのまま、こっちに向かって来る。
「佐伯さん、僕はいいから早く逃げろ!」
田村刑事が叫んだ。
「駄目です、一緒に逃げるんですよ!」
だが、思ったより二つの神像の動きは早かった。金剛棒を振りかざし、地響と共に、目前に迫った。
阿形像が襲ってきた。
「グオー!」
唸り声が周囲の空気を震撼させ、続いて金剛棒が宙を切った。
すごい風圧だ。まるで足下に突風が吹きつけたようだ。あれにまともに当たったら最後だ。
僕は急いで左腕を宙にかざした。
「善界の弓よ、その姿を現せ!」
キュオオオ!
耳をつんざくような金属音と共に、光の渦が左腕を包んだ。渦の中から二つの物体が腕を上下に挟むような形で現れ、手首のところまで移動すると一気に身を起こし、一つの物体となった。
さらに軋む音を響かせながら、それはそのまま上下に伸び、あっという間に一つの巨大な弓と化した。弓の中央には悪魔のような赤い目が開かれ、それがギラギラと輝く。かの魔人の武器が再びこの世に召喚されのだ。
弓から発せられる声が頭の中に響き渡った。
『小僧、久しぶりだな。今度の相手はあのデク人形か!』
弓の叫びと共に、巨大な光の矢が現われた。僕は狙いを定めて、間近に迫った巨人目掛けて矢を放った。
ドキュウウ!
雷鳴のような音と共に、鬼殺しの矢が闇夜を貫く。矢は光の渦をまき散らしながら飛翔し、金剛棒を振り上げた阿形像の左腕を直撃した。
ドゴーン! 爆発音が響き、飛ばされた金剛棒が回転しながら地面に突き刺さった。鬼雷矢が阿形像の左腕を吹き飛ばしたのだ。不意を突かれた阿形像はそのまま両膝を屈し、ゆっくり地響きと共に地面に倒れた。
「やった!」
だが、敵は一体ではない。
慌てて弓を構える間もなく、既に吽形像の巨大な金剛棒が振り下ろされようとしていた。
思わず目をつぶった時、激しい打撃の音が頭上で響いた。
「?」
一瞬、全身を砕かれたかと思ったが違っていた。目を開けて見ると、吽形像の金剛棒はギリギリのところで止っており、その棒をまりちゃんが両手で押さえていた。
「まりちゃん!」
『光司、大丈夫?』
「グオオオ!」
吽形像は怒りに顔を歪め、唸り声を発した。続いて右手を振り上げ、まりちゃんに向かってパンチを放った!
『凄いパンチね、でも当たらなければ意味がないわよ』
渾身のパンチを軽くかわされ、吽形像は驚愕していた。続いてまりちゃんの右手が青い球形の光に包まれた。
『パンチっていうのはね、こうするのよ!』
輝いた右手が、一気に巨人の胴体に叩き込まれた!
ドガーン!
ダイナマイトを爆発させたような音が辺りに響いた。吽形像の胴体には巨大な風穴が空き、砕け散った部分がバラバラと辺りに飛び散ってゆく。
まりちゃんのたった一発のパンチが致命傷となった。動きが停止した巨人はそのままドッと仰向けに倒れ、あっという間にもとの木彫りの像に戻ってしまった。殆ど一瞬のでき事だった。
田村刑事と僕はあっけにとられて、その光景を眺めていた。
「あの。もう終わったの?」
「終わったようですね…」
二体の像が出てきた南大門は跡形もなく崩れ、そして目の前にはただの木彫りの像が転がっているだけだった。この像達が今まで動いていたとは信じられなかった。
まりちゃんはしばらく上空から倒れた二つの神像を見ていたが、やがて空中でクルリと向きを変えて目の前に降りてきた。
「まりちゃん、助かったよ」
『光司、御苦労様と言いたいところだけど、時間がないの』
「えっ?」
『別の敵が大仏殿の屋根に現れたみたい。かなり強い力を感じる、急いで!』
まりちゃんはそう言い残すと、そのまま全身を青い光に包み、大仏殿の方に飛び去っていった。慌てて田村刑事と僕は一緒にその後を追った。
「田村さん、大丈夫ですか?」
「何とか。あんまり退屈なんでうろうろしていたら、いきなり後ろからあいつらに首を絞められたんだ。声も出せないまま殺されるところだった」
胡蝶は神像が動き出した音を聞き分けていたらしい。
寺の中門をくぐって境内に入ると、既に全員が集っていた。後藤氏がまりちゃんを抱いたまま、僕と田村刑事に無言で頷いた。
「後藤さん!」
「二人とも屋根の上をご覧なさい。いやはや驚きました」
言われた通り屋根を見上げると、何者かが屋根に上に立ち、我々を見降ろしていた。
「人間?」
それは人の姿をしていた。だが、単に人の姿に化けているという事も考えられる。そいつは真っ黒なマントに身を包み、顔の部分はフードに覆われていてよく分らなかった。
「あっ!」
思わず僕は声を上げた。そいつの傍らには、二羽の巨大な怪鳥が羽根を休めていたのだ。その二羽こそは飛火野で見た鬼烏に違いなかった。
頭部に一つだけ巨大な目を輝かせ、鬼烏たちは僕達の姿を認めると、ギャア! と一声上げて何かを吐き出した。
カラカラと乾いたような音を立てて白く光るものが転がり落ちた。
「鹿の骨のようですね」
後藤氏が呟いた。
「ギャア!」
再び烏たちが耳をつんざく鳴き声を発し、十五メートルはあろうかという巨大な翼をはばたかせた。あの二羽はつがいなのだろうか? 寄り添うようにして屋根の上にとまっていた。
鳥たちが騒ぎ出した時、不意にそのフードの怪人は片手を上げ、二羽を制した。
途端に怪鳥は小鳥のように羽根を縮め、巨大な頭をうなだれた。
『どうやら役者が揃ったようだな…』
不思議な声が直接頭の中に響いた。
「一体、何者だ?」
僕がそう呟くと同時に、怪人は静かに自分の頭を覆っているフードを脱いだ。
「!」
フードの中から現れた顔は人間の男の顔だった。だが、その両目は獣か悪魔を思わせるほど、真っ赤に、そして凶悪に輝いており、その視線にさらされただけで、身のすくむような思いがした。離れた場所にいても、それが充分過ぎるほど感じられた。闘いの本能が瞬時に告げる。こいつは敵だと。
だが、怪人の姿は今までに見た妖怪や鬼とはあまりにも異なっていた。
『お前たちが超常現象調査会だな?』
再び男の声が頭の中に響いてきた。
「お前は何者なんだ!」
『知りたいか? しかし、お前たちはこれから死ぬ運命。その必要もなかろう』
人を小馬鹿にしたような表情を見せると、男はそのまま屋根の上に腰をおろし、足をくんだ。余裕を見せたつもりなのだろうか?
『しかし、冥土の土産に教えてやる。私が名は威追(いお)、お前たちを抹消するために来た』
「抹消だと? 何のためだ!」
『問答無用』
「この野郎!」
田村刑事がホルスターから拳銃を抜いた。
『フン、そんなオモチャで何をするつもりだ?』
威追と名乗った男は鼻で笑うと、ゆっくりと立ち上がった。
『俺は無駄な戦いはしたくない。エネルギーの無駄使いは嫌いでな。この中でまともに戦える奴と勝負したい』
「分ってるなら、さっさと降りてきたらどうだ!」
僕がそう叫んだ時、突然、威追の姿が屋根から消えた。
「消えた?」
『何を驚いている?』
我に返ると、威追は瞬時に僕の目の前まで移動していた。馬鹿な!
『驚く暇があれば攻撃に備えろ』
その言葉と同時に、あっという間に両肩を掴まれた。
ズドン! というにぶい音が響いた。同時に激痛が全身を貫いた。気が付くと威追の右膝が腹部にめり込んでいた。
「ぐっ!」
途端に全身に力が入らなくなり、腹を押さえたまま両膝をついた。
『光司!』
『何というモロさだ。鬼芭王を倒したというから、もっと強い奴かと思ったが。やはり餓鬼は餓鬼か』
「鬼芭王だって?」
『そうだ。佐伯光司よ』
威追は冷笑を浴びせると、今度は後藤氏の前に瞬間移動していた。
「後藤さん!」
立ち上がろうとしたが、どうしても体がいう事を効かない。いたずらに砂利を掴むしか術がなかった。
『お前がこの連中のリーダーか』
「そうだ」
冷笑する威追に対し、後藤氏も落ち着いた様子で話した。だが、その額にはうっすらと汗が滲んでいた。
『やはりこっちも、普通の人間か』
「何のために我々を狙うんだ?」
『少し、からかってやっただけだ。鬼芭王を倒した奴がどんな奴か、この目で見とこうと思ってな。お前たちは魔訶不思議な事件を調査していると聞いた。だからわざとに鬼烏を暴れさせたりしたという訳だ。はたから眺めていると面白かったぞ』
「お前は鬼芭王の仲間なのか?」
『フフ、あんな下衆の仲間とは思われたくないな』
威追はニヤッと笑うと、素速くジャンプし、屋根の上に飛び上がった。まるで後藤氏と談笑でもしているかのようだ。それでも全く隙がなく、誰も手が出せなかった。
『本来なら阿修羅を助けて、あの神像達を使って日本を支配しようと思った。だが、そこにいる人形のせいで考えが変わったのだ。まずは邪魔なその人形を始末しないとな。クククク』
威追の声がまた思念波に変わった。
「まりちゃんが邪魔だという訳か?」
後藤氏が吐き出すように言った。
『お前の人形の事は噂に聞いている。随分と強いそうだな』
「だとしたら?」
『試してみたいものだ。その力を』
「どうなっても知らないぞ」
『おそらく、お前の人形は破壊されよう』
「なめるな、まりちゃんは無敵だ」
『では見せて貰うか。その力とやらを!』
そう言った途端、威追は屋根の上で両手を広げた。やるなら今しかない!
「い出よ、鬼雷矢ー!」
隙をついて僕は再び鬼雷矢を召喚させ、そのまま狙いを大仏殿の屋根に向けた。
「威追、さっきの仕返しだ!」
バシュウウ!
鋭い音と共に、鬼雷矢が威追に襲いかかった。だが屋根の上にいる威追は平然としていた。まるで鬼雷矢を無視しているようだ。
『愚かな奴だ、そんな使い古しの武器が通用するか!』
一瞬のでき事だった。威追が両手を鬼雷矢の方に向けた時、奇怪な音と共に黒い塊が生まれたのだ。
『い出よ、黒魔理(ブラックマリー)!』
その塊は空中を浮遊しながら、徐々に変形していき、やがて人形の形となった。鬼雷矢がその人形を直撃した!
バシュウウ!
当然、鬼雷矢がその人形を貫いたと思ったが、その人形が差し出した掌に鬼雷矢は動きを封じられていた。行き場を失った鬼雷矢はエネルギーを周囲に発散させ、たちどころに消滅した。
「ば、馬鹿な!」
『無駄な戦いと言ったはずだ。お前とは位階が違いすぎる』
威追はうすら笑いを浮かべた。
『ほんと、弱すぎて退屈しちゃう』
その人形からも思念波が届いてきた。
鬼雷矢をはね返した人形は両手を後ろに組み、そのまま宙に浮いていた。その姿を見て驚愕した。
「ま、まさか!」
「あれは、まりちゃん?」
信じられない事だった。威追が召喚したその人形は、驚くほど姿がまりちゃんに似ていた。ただ一つの違いと言えば、着ている服の色と髪の毛の色だった。まりちゃんが金髪なのに対し、マリーの方は真っ黒な長い髪を風になびかせていた。
皆が茫然としている中、マリーはまりちゃんの方を見て言った。
『あたしの名は黒魔理(ブラックマリー)、あなたがまりこ?』
『そうよ。あなたもサイキックドールなの?』
『まあね。でも貴方より優れたサイキックドールよ』
『どうしてそう言い切れるの?』
『戦えば分るわ。でもその前に、言いたい事があるの』
『何?』
『あたし達と手を組む気はない? 今だったらまだ間に合うわよ。あなたのその力、ほっておく手はないもの』
「そんな馬鹿な誘いにのるもんか」
『この場で破壊するしかないわね』
まりちゃんは、瞬時に大仏殿の鯱の上に飛び乗った。そして無言で闘いのかまえを見せた。
続いてブラックマリーも反対側の鯱の上に飛び乗った。
『いくわよ、まりこ!』
『望むところよ!』
クワアアア!
目には見えぬエネルギーの波動が周囲に広がった。まりちゃんは青い光に包まれ、ブラックマリーの方は真っ赤な光に全身を包んだ。全ての緊張が二人の間に集り、あまりの気迫に屋根の上にいた鬼烏も、叫び声を上げて空中に飛び上がった。
『死ねー!』
ブラックマリーは叫ぶと同時に、轟音を立てて空中に飛び上がり、そのまままりちゃんと空中で激突した!
『破!』
叫び声と共に、屋根瓦が紙吹雪のようになり、一斉に吹き飛ぶ。まりちゃんがその衝撃波をかわすと同時に鯱の一つが粉々になって砕け散っていった。続いてブラックマリーの姿が視界から消えた。
『これで終わりよ! まりこ!』
『!』
頭上でブラックマリーの声が響いた。両手に巨大なエネルギーの光球を作り、それが、まりちゃんの方へ向けられた。
『何?』
その光球の中から、赤い光線が屋根に向かってほとばしる。光線はそのまま三つに分離し、まりちゃんの周囲を線を描くように回り始めた。
『か、体が動かない!』
『くく…楽しい事が起こるわよ』
ブラックマリーが勝ち誇った表情を見せた。赤い光線は段々と回転を早めていき、ついには完全にまりちゃんを覆ってしまった。一体、何の技なのか?
今や円筒形になった光線の中から、不意にデルタ型の結界が出現した。その結界はゆっくりと降下し、まりちゃんを中心に置くと、そのまま上昇を始めた。
『体が、上に引っ張られる!』
『どお? あたしの作った結界の居心地は。どうしてあたしが、あなたより優れているか教えて上げようか?』
『何が言いたいの?』
『確かに打撃力ではあなたと私の力は五分五分だったわ。だけどあなたにはないものを私は持っている。私には生まれた時から授かった魔導術があるもの』
『えっ何ですって!』
『あなたはもうすぐ、この結界の中で粉々になるのよ。残念ね』
『こんなところで、死ぬ訳にはいかないわ!』
まりちゃんは必死でデルタ型の結界に打撃を加える。だが、収縮を続ける結界はビクともしなかった。
「まりこ!」
後藤氏が叫んで飛びだそうとしたが、その前に威追が立ち塞がった。
『人間よ。そんなに死に急ぎたいか?』
「卑怯な!」
『卑怯だと? これはお前の人形と黒魔理(ブラックマリー)の戦いじゃなかったのか? 俺とお前達の戦いとは違うぞ』
「くっ…」
後藤氏は拳を震わせたまま、威追の方を睨んでいた。
『さあ黒魔理(ブラックマリー)、まりこに、とどめを刺せ!』
威追の命令にブラックマリーは頷き、両手を組み合わせて一気に念を発した。
『破壊(クラッシュ)!』
ドゴオオンン!
空中で凄じい爆発が起こった。ブラックマリーが作ったデルタ型の結界から閃光が周囲に飛び散り、粉々になった光の結晶が、風に吹かれた砂のようになって散って行った。
「まりこー!」
後藤氏が叫んだ。
「そ、そんな…」
一瞬、言葉が出て来なかった。まさか、まりちゃんはこれで死んでしまったのか?
『残念だな、お前達の切り札もあの通りだ』
無意識に膝が震えた。まりちゃんが倒れたら、今の僕たちがブラックマリーや威追に勝てるはずがない。どうしたらいいんだ?
「お、俺は信じないぞ、まりちゃんが、お前らなんかにやられてたまるか!」
田村刑事が叫んだ。
『みんな・落ち着いて』
混乱している僕達の頭の中に、胡蝶の思念波が飛び込んできた。途端に全員の心の中が同調した事が感じられた。こうすると第三者に気付かれぬように、大勢が一緒に心の中で会話できるのだ。
「胡蝶、どうしたらいい?」
『いいから・みんな・落ち着いて。まりちゃんは・死んではいないわ』
「どうしてだよ! 今、結界が爆発したじゃないか!」
『爆発する寸前に・まりちゃんは・テレポーションで・あの中から・逃れているわ』
「そうだったのか! でもどこにいるんだよ」
『この・境内の外に・池があるでしょ?』
「うん」
『その中に・沈んでいるわ』
「何だって!」
『幸い・威追も・ブラックマリーも・まだそのことに・気付いていないわ。やつらの・隙をついて・逃げるわよ』
「でも、このまま退散するのか?」
『小僧、よく考えてみろ』
弓の声も頭の中に飛び込んできた。
『今の我々に勝ち目がない事は、お前も分っておるだろう』
「だ、だけど」
『それともここで全員、皆殺しがいいか?』
「…」
『逃げるんだ!』
「分ったよ。でも、どうやって逃げるつもりだ? 簡単な事じゃ逃げられそうにないぞ」
『一か八か・やってみようよ』
胡蝶が微かに微笑んだ。どうするというのだろうか?
『あたしが合図をしたら・鬼雷矢を・やつらに向けて撃って。その隙に・あたしは・池の中にいる・まりちゃんを・助けるわ』
「それからどうする?」
『田村さんと・修ちゃん。それに林田さん達はまりちゃんを連れて・そのまま逃げて。あとは・あたしがなんとか・くい止める』
「無茶だ! どうやったって逃げられっこないよ!」
『弱気になっては・何もできないわ。一か八かよ・。光司も・弓を放ったら・すぐに逃げて』
「僕は嫌だ」
『光司!』
「私も嫌です」
後藤氏も拒否した。
「胡蝶を置いていく訳にはいかないよ」
田村刑事も心の中で叫んだ。
「私達も及ばずながら、戦いたいと思います」
林田兄妹の思念波も聞こえてきた。
みんなこの場所に残りたいのは同じだった。共に数々の死線を乗り越えてきた仲間なのだ。逃げる事よりも、一生、後悔を引き摺る事の方が嫌だった。
『ありがとうみんな。だけど・これからの事も・考えて。ここでみんなが・死んでしまったら・誰が阿修羅を・倒すの? 闘いは・これで終わりじゃ・ないのよ。そんな時・まりちゃんが・いなかったら・勝つことはできないわ。逃げることを・敗北と・思わないで』
「胡蝶…」
『あたしを信じて。決して・やられはしないから…。それよりも・早く・まりちゃんを・助けなきゃ』
「分ったよ。一刻の猶予もないもんな。皆な、いいですね?」
「了解…」
全員から同意の声が洩れた。こうなったらやるしかない!
『あまりのショックに声も出ないようだな』
威追が冷笑しながら、僕達を見下ろしていた。
『今度はお前の番だ、佐伯光司』
「そのようだな。だけどただでは、やられはしないぜ」
『ほう。どうするつもりだ?』
『い出よ! 鬼雷矢ー!』
善界の弓に鬼雷矢が召喚され、光の渦が目の前で回転を始めた。
『そんな事をしても、無駄だという事が分らないのか?』
「無駄かどうか!」
弓を威追の方に向け、一気に放つ。
「試してみやがれ!」
ドキュウ!
耳をつんざくような轟音と共に、鬼雷矢が空を突き進んでいく。だが威追は余裕の表情で片手を上げた!
「今だ!」
右手を左腕の上に乗せ、念を放った!
「散開!」
叫び声と共に、鬼雷矢が一気に分裂する。
一つの鬼雷矢は衝撃波で叩き落とされた。だが、もう一つの鬼雷矢が旋回しながら威追に襲いかかった。
『しまった!』
激しい爆発音が空中で響く。不意を突かれた威追は両手で顔の部分をかばうようにしていたが、やがてバランスを崩し、大仏殿に向かって落下して行った。
胡蝶はそれを確認したかのように、身を翻して池の中に飛び込んで行った。
『なかなかやるな、少年!』
威追は体勢を立て直すと、瞬間移動を使って目の前に現れる。あくまで余裕の態度を崩してはおらず、自信に満ちた表情で微かに笑った。
『くく、始めから弓を二つ放っていたのか。バリヤーを張るのが後、少し遅かったら危ないところだったぞ。しかしその程度では我が肉体は砕けんぞ!』
「くそっ!」
だが、威追の右腕から血が流れているのが見えた時、その自信に満ちた表情も静かに崩れ去って行った。
『まさか、この俺が血を流すとは』
威追は驚愕の表情のまま自分の指先を見つめていたが、やがてその指先を獣のように舐めた。
『俺に血を流させるとは、面白い!』
一気に威追の全身から、光の波が放出されていく。
『佐伯光司、血には血であがなってもらおう!』
威追が手をかざした瞬間、凄じい衝撃波が襲いかかってきた。周囲の地面が一斉にめくれ上がり、幾つもの閃光が体内を貫いて行った。まるで世界が幾つにも切り裂かれたようだった。そのまま数メートル吹き飛ばされた。
「うぐっ!」
口から血が吹き出し、仰向けに倒れた。駄目だ、強過ぎる!
「胡蝶、早くしてくれ!」
池の方に目をやると胡蝶の後を追うように、一羽の鬼烏が叫び声を上げながら飛んで行くのが見えた。しまった! 感づかれたのか?
『ほう、あの人形を助けて逃げようと思っていたのか。可愛いものよ』
「胡蝶!」
急いで池の中に思念波を送る。
『まりちゃんは・無事よ。焦らないで』
「鬼烏がそっちに向かってるんだ!」
『知ってるわ。それを・待ってたのよ』
「えっ?」
鬼烏が巨大な翼を広げ、池の中に飛び込もうとした瞬間、水面が一気に光り輝き始めた。
『鬼烏、逃げろ!』
危険を察知した威追が叫ぶ。だが、既に遅い。
『鬼雷獣・召喚!』
ズバアアア!
胡蝶の叫び声と共に、一気に水面が盛り上がったかと思うと、それをつき破るようにして鬼雷獣が飛び出した。不意を突かれた鬼烏は悲鳴を上げるしかなかった。
「ギャアアア!」
断末魔の声と共に、鬼烏の黒い羽根や皮膚が剥がされ、骨格だけの姿となる。その骨格さえも、光線の中にあっという間に消滅していった。
水面を飛び出した鬼雷獣は、叫び声を上げながらブラックマリーを襲う。
『水面から飛び出したせいか、スピードが遅いね』
ブラックマリーはいとも簡単にそれをかわした。
「何て奴だ!」
『あの市松人形、召喚術も使うのね。面白いわ』
鬼雷獣を放った後、まりちゃんを抱えたまま飛ぶ胡蝶を、ブラックマリーが追う。
「胡蝶、早く逃げろ!」
必死で叫んだがブラックマリーのスピードは早い。みるみるうちに胡蝶は追い付かれてしまった。目の前に不意に現れる悪魔の人形。
『こんにちわ。日本の人形さん。驚く暇はないわよ!』
言うが早いか、その手から衝撃波の弾丸が飛び出し、胡蝶を襲った。まりちゃんを抱えたままよける術もなく、胡蝶は弾かれるように地面に墜落して行った。それに追い討ちをかけるように鬼烏が襲いかかる。仲間を殺された怒りからだろうか? 叫び声を上げながら、巨大な羽根で二人を地面に叩き落とした。
『なあんだ。案外、モロイのね』
「胡蝶!」
追いかけようすると、威追は笑い声を立てた。
『お前達のチャチな作戦くらい、始めからお見通しだ。もはや逃げる事はかなわんぞ鬼烏の敵、取らせてもらう』
再び背後から威追の衝撃波が襲ってきた。鋭いナイフで刺されたような痛みが全身を走り、血が吹き出した。
「ぐおっ!」
もうもうと立ち上がる煙の中で、僕はガックリと膝をついた。目の前が真っ赤に染まり、次第に意識が薄れていく。鬼烏が後藤氏たちに襲いかかるのが見えた。鋭い足の一撃をくらい、転がるようにして倒れていく。
『どうした小僧、もう限界か?』
僕は衝撃波で体中がズタズタになり、心配そうな鬼雷矢の声を聞きながらも、そのまま地面に倒れた。
もう…駄目なのか?
『お前達は始めから、我が術にかかっていたのだ。気が付かなかったのか?』
威追が指示を出すと、ブラックマリーも目の前にエネルギーの光球を作り出した。また、さっきの結界を作るのか?
『消えろ』
消え入りそうな意識の中、威追の呟く声が聞こえた。
ヒュウオオオオオオ…
何の音だろうか? 死を覚悟した時、どこからか不思議な音が近づいてきた。聞いた事もないような音だ。その風を切るような音は段々と近づいて来ると、寺の境内のところまで迫っていた。注意して聞いていると、それは砂漠の上に吹く砂嵐の音を思わせた。
ゴウッ!
一瞬のうちに突風が吹いてきた。周囲の木立がその風にあおられ、ざわめいた。まるで嵐の中にいるようだ。その風もどんどん強さを増していった。
『この風の音は』
威追がそう叫んだ時、突然、二つの物体が木々の間から弾丸のように飛び出してきた。
『何!』
物体は、威追とブラックマリーに襲いかかり、あっという間に連中が発生させていた光球を粉々に破壊してしまった。飛び散る光球のかけらが体中に降りかかった。
『何者だ』
すかさず威追が右手から衝撃波を乱射したが、物体はいとも簡単にそれをかわした。
物凄いスピードだった。
「グオオオオ!」
屋根の上に飛び乗った二つの影から砲哮が聞こえた。その姿を見て林田が叫んだ!
「炎獅子、電獅子、来てくれたか!」
「グオオオ!」
それに答えるかのように獅子達の砲哮が月夜に響く。まさに救いの神だった。
「林田さん!」
「任せて下さい!」
林田と玲子は倒れたまま、獅子達に命令を下した。
「炎獅子、電獅子、目一杯、暴れてやれ!」
二頭の獅子はそれに応えると、いっせいに屋根から飛び降りた。炎獅子の方は大きく開かれた口から火炎を吐き、電獅子の方は立て髪が光り輝いたかと思うと、それが激しいスパークを放ち、威追たちに電撃を浴びせた。
『ぬう、電撃術まで使うのか』
鋭い叫び声を上げて、鬼烏が獅子に戦いを挑む。しかし、敏捷な獅子は迫りくる鬼烏の爪をいとも簡単にかわし、羽根の一部に深々と牙を食い込ませた。真っ赤な血が飛び散り、鬼烏の黒い羽根が辺りに散った。
ギャアアアア!
悲鳴を上げた鬼烏は、はばたきの力で獅子たちを振り飛ばし、そのまま上空に逃れようとした。敵の動きに隙ができた時、二体の獅子は僕たちの目の前に立った。
『佐伯光司よ。今一度、立ち上がれ』
獅子から発せられる思念波が頭の中に響く。
「でも、体が…」
『甘えるなよ』
そう言った途端、獅子達の体から眩しく光る花粉のような粒子が飛び出した。それが倒れている全員の体を覆っていく。粒子は月光の中できらきらと輝いた。まるで雪の細かな結晶のようだった。
「これは…」
信じられなかった。光の粒子が体内に吸い込まれたかと思うと、あれ程ひどかった火傷や傷がどんどん塞がれていく。まるで生まれ変わったかのような気がし、みるみるうちに力が戻ってきた。この獅子達には治癒の能力もあったのだ。
『このままやられるつもりか、さあ、今一度、立ち上がれ!』
不意に力が沸いてきた。手元にあった石片を強く握り絞めた。
「力が、力が沸いてくる!」
やがて胡蝶が、後藤氏が、田村刑事が、林田兄妹が立ち上がった。
『くそ、逃がすもんか』
ブラックマリーが光球の破壊エネルギーを瞬時に形成した。だが、それよりも先に炎獅子の火炎放射がブラックマリーに襲いかかった。
『うっ、こんなに炎が強いなんて!』
『悪魔に作り出された邪なヒトガタよ、お前も燃え尽きるがいい!』
『ちっ!』
ブラックマリーは舌うちをすると、瞬時に空間を移動して炎獅子の炎をよけた。
『とんだ邪魔が入ったようね。また出直すとするわ』
それにならうように威追も空中に飛び上がる。自信に満ちていた威追の表情にも焦りの色が浮かんでいた。
『待ちなさい、ブラックマリー』
突然、背後でまりちゃんの声がした。
「まりちゃん、無事だったのか!」
振り返るとまりちゃんは、全身を獅子の発した金色の粒子に包み、それを手先の一点に集めようとしていた。今や生まれ変わったかのように、全身をサイキックエネルギーに包み、その両目は威追たちを睨んでいた。
『ブラックマリー、よくも好き勝手にいたぶってくれたわね。たっぷりお礼をしてあげる』
『フフ、どうするつもり?』
ブラックマリーは威追の隣で薄笑いを浮かべた。
「まりこの力が打撃だけじゃないって事を見せて上げるわ、本当は使いたくなかったけど!」
まりちゃんの周囲の空気が振動していた。目には見えない波動が津波のように伝わってくる。
危ない!
咄嗟に僕はそう思った。耳をつんざく音の高さが何段階も跳ね上がり、高密度・高圧縮のエネルギーがまりちゃんの手先に集められていく。集められた粒子は真っ赤に輝き、まりちゃんの手の中で回転を始めた。
「みんな、逃げるんだ!」
『な、何をするつもりだ?』
威追が叫んだ時、僕たちは顔を見合せると、一斉に走り出していた。
『まりこの必殺技、受けてみよ!』
そう叫んでまりちゃんは空に向かって両手を突き出した!
『プラズマアタック!』
ズバッ!
稲妻が虚空を貫く音が響いた。空全体が真っ白に輝き、何もかも見えなくなった。夢中で全員が目を閉じた。あまりの閃光で目がつぶれそうになったからだ。
だがその時、威追達の耳には、そこにはいない第三者の声が響いていた。
『威追よ、ブラックマリーと鬼烏を連れてその空間を脱出しろ』
『しかし、暫く連中を見張る必要があるぞ』
『馬鹿め、そのままそこにいたら、粉々に吹き飛ぶぞ。命令に従え』
『…分った』
威追はしぶしぶ承知した。
『ちっ、阿修羅め。霊力が高まって来ると同時に偉そうになってきやがった』
まりちゃんの発したプラズマアタックが威追達に襲いかかる瞬間、二人と一羽は瞬時にその空間から姿を消してしまった。後には巨大なエネルギーがなす術もなく、虚空を飛び去っていった。
だが、あまりに巨大なエネルギーを打ち出したために、まりちゃん自身にもその反動は襲いかかった。プラズマを発した瞬間、まりちゃんの体も反動で後ろ向きに飛ばされ、大仏殿の中に飛び込んでいった。まりちゃんの体のあちこちから稲妻が飛び出し、ついには建物全体を破壊し始めたのだ。サイキックエネルギーの暴走である。まりちゃんはまだそのエネルギーを制御する術を知らなかったのだ。プラズマアタックは両刃の剣なのだ。
「まりちゃん!」
『みんな、ここから離れて、吹き飛んでしまうわ!』
全身を押さえながら、まりちゃんが叫んだ。
『お願い、あたしのエネルギーよ、早く静まって!』
だが、膨大なエネルギーは後から後からと、まりちゃんの体の中から吹き出し、それが稲妻となって、境内の中を縦横無尽に走った。あちこちで金堂の柱や石でできた灯篭の粉々に砕ける音が響いた。その衝撃は地震を感じさせるほどだった。
何もかもが破壊されていく。
「このままだと、まりちゃんが危険だ、自分で自分を破壊してしまうぞ!」
「何とか止めるんだ!」
後藤氏が絶叫した。
『あたしがやるわ!』
胡蝶が叫び、まりちゃんの元へ飛んで行く。
「どうするつもりだ」
『プラズマを・止められるのは・ただ一つ!』
胡蝶は自分が懐にさしていた小さな小刀を、うずくまって耐えているまりちゃんの四方に突き刺した。急いで両手を合せ、早口の呪文を唱えた。
『量子結界!』
胡蝶がそう叫んだ途端、不思議な事が起こった。今まで、まりちゃんの体から弾けていた稲妻が、逆モーションのようになって渦を巻き、次々と元に戻っていくのだ。その光景は丁度、ビデオの逆回しのように見えた。稲妻たちは地面の上や、建物の回りを這い回り、次々とまりちゃんの体の中に戻ってきた。
「なるほど、エネルギーを制御する結界か!」
「効率がいいぞ!」
しかし、喜ぶのはまだはやかった。胡蝶にしても、その技を使うのは始めてだったのだ。うまい具合にエネルギーを吸収させたまでは良かったが、恐ろしい事に、今度はエネルギーの集中によりマイクロブラックホール(!)が発生してしまったのだ。
夢中で呪文を唱える胡蝶の周辺が、ゆっくりと地中にめり込んでいった。
『ゲ・沈んじゃう!』
ズズズズズ…
地響きと共に、足下の地面に長い亀裂が入った。あちこちに立っていた石灯篭も倒されていく。
「じ、地震だぁ!」
「大変だ、まりちゃん達が!」
まるで蟻地獄に飲まれるように胡蝶もまりちゃんも、あっという間に地面の中に吸い込まれていく。ブラックホールの重力のために大仏殿事態も全体が歪み始め、まるでねじ切られるように崩壊しようとしていた。大仏殿の支柱や、その支柱を支える礎石の破裂する音が響いた。
それだけでなく、材木や敷石、立ち並んでいた木なども次々と地面の中に潜り込んでいった。胡蝶もまりちゃんと同様、力の制御ができていなかったのだ。
「胡蝶、何やってんだよ!」
『光司のドジが・うつったみたい』
「ああ、佐伯さん、あれ見て下さい!」
玲子が叫んだ。
「うわああ!」
見ると大仏殿の中に安置されていた巨大な大仏が、体を大きく傾けていた。十六メートルはある仏像がいとも簡単に地中に吸い込まれていく。
「何てこった!」
後藤氏がかすれた声で悲鳴とも叫びともつかぬ声を上げた。
大仏殿が、国宝の大仏と共に、あっという間に地面に消えて行った。全員が口をアングリと開けてその光景に見入っていた。もう死ぬまでこんな光景にはお目にかかれないだろう。
「し、知らないぞ、仏罰間違いなしだ、末世の到来だぁ!」
「バチなら既にあたっていると思うけど」
林田がそう言って一人で頷いた時、胡蝶が豪快な音を立てて、地面の中から飛び出した。なんとか強力な重力場から脱出したようだ。足下を揺らしていた地震も、少しずつおさまっていくようだった。
この時点では大仏殿崩壊消滅の真の理由には誰も気がつかなかった。後日、寺西教授が説明したところによれば、まりちゃんのエネルギーがあまりに強大だったのでマイクロブラックホールが発生してしまったとの事だった。だがそれは不安定なのでやがて消滅してしまったのだ。しかし、もうちょっと、まりちゃんのエネルギーが大きかったら、地球も飲み込まれていたかもしれないとのことだった。まりちゃんを怒らせると本当にあぶないのだった。
「胡蝶、大丈夫か!」
『なんとか大丈夫。でも・もう闘えないわ』
空中に浮かび上がった胡蝶によりかかるようにして、まりちゃんも降りてきた。精も根も尽き果てた感じだった。あれほどのエネルギーを必死で制御しようとしたのだ。当然だろう。
後藤氏は声にならない叫び声を上げると、優しくまりちゃんを抱いた。
「まりちゃん。無事で良かった」
「やったじゃないか!」
『ごめんね、しゅうちゃん。やっぱりあの技は危険過ぎたわ』
「いいんだよ。もう、ゆっくりお休み。今日はよくやったね」
『…』
その言葉を聞き終わるか、聞き終わらないかのうちに、まりちゃんはそっと目を閉じた。全力を出しきったのだ。
気が付くと自分の足下もふらつくのを感じた。両腕がひどく重く感じられ、頭もボンヤリとしてきた。歩くのがひどく、おっくうだった。できたらこのまま倒れてしまいたい。獅子達に助けられたとはいえ、まだ疲労が強く残っていた。
「林田さんの狛犬に助けられたよ」
「いえ、申し訳ありません。獅子達は、本当はもっと早くやってくるはずだったのです。しかし威追達が、寺の周囲に巨大な結界を張っていたので発見が遅れました」
「どうりでこれだけ大騒ぎしても誰も来ないはずだ」
「大仏殿が消滅したのは残念です」
そう言われて振り返ると、境内の中は丁度、大仏殿があったところだけ綺麗に陥没してなくなっていた。押し潰された文化財がただの瓦礫の山と化しており、その上に覆い被さるようにしてたくさんの木々が倒れていた。明日からどんな騒ぎになる事やら。
「なくなったら、また誰かが作りますよ。問題ないと思いますよ」
後藤氏がいつもの調子でとぼけてみせた。
「僕達、犯罪者の群れですね」
「言い得て妙です」
「ハハハ、それにしても、皆な顔が真っ黒ですよ」
林田が言うと全員が笑い転げた。
「煙突掃除でもしたと、ホテルの人には言いましょう」
後藤氏が多少、足を引き摺りながら言った。
取り敢えず、第一ラウンドは引き分けだった。それも二頭の獅子が来なかったら、全滅していた事だろう。威追たちは今度はいつ現れるのか?
「もうすぐ夜明けですね。今日は一日、シャワーでも浴びて、ゆっくりと眠りたいですな。全員が目覚めたら、丁度いい時間に食事にしましょう」
「了解」
瞼が段々と重くなってくる。心地好い微かな風が、それに追いうちをかけた。
もうすぐ登大路が朝焼けに染まろうとしていた。
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